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「批判に強い」とは何か

批判的な言説を主張しながら、自分に批判の矛先が向くと苦しみ、批判の無い世の中を望むとして批判に対応できない人はいる。

一方で批判されても悠々と構え、議論の姿勢を辞さない人もいる。

前者の姿勢は時々批判されることがある。自分が批判しているくせに批判されると怒るのはおかしい、それは単に自分を盲信させたいからではないか、と。

そういう場合もあるだろう。しかしそうとは限らない。

批判されて嫌がるのはあまりスマートではないし、その主張が「考え抜かれていない」可能性は大きい。その状態で教祖のように振る舞うのは流石に無理がある。

しかし批判に強いことは一つの美点であって、それ以上でも以下でもないと私は考えている。考え抜いたことの証左にはなるかもしれない。しかし主張の正しさを証明するようなことではないと私は考えている。

議論の強さで有名なインフルエンサー

日本の著名な実業家でインフルエンサーとしても知られ、主にネットサービスで歴史に残るようなコミュニティを創始したH氏は、議論が強いことで知られている。

多くの著名な識者がH氏に議論を挑んでもなかなか勝てない。悠々と反論を受け止めるH氏に論破されてしまう。

ただH氏には脱税や未払いがあり、逃れるため国外に逃亡していると言われている。

H氏の喋りは落ち着いて説得力があり、全ての反論を想定しているのか議論にめっぽう強く、実業家としての実績も名高い。

しかし彼を信奉して著書などに影響を受け、「遅刻してもいい」などの生き方アドバイスを実行したとする。(H氏は時々、著書などで遅刻を肯定的に言及している。)そういった“ゆるいアドバイス”の行き着く先がH氏のように未払いや脱税だったとして、H氏と同じく国外に逃亡できる人なんてほとんどいない。

議論に強いのは素敵だ。言葉に説得力を生む。全ての反論を想定して考え抜いているのだろう。論客として立派な姿勢だ。著名なネットサービスを創始したのも素敵だ。沢山の人が利用した。もちろん私も利用した。

インフルエンサーを批判する人がいたら

例えば「H氏は脱税してるから信用ならん」と言っている人がいたとして、その人が議論に強いとは限らない。批判されたら嫌がるかもしれない。その人にとって「脱税はいけない」ことに議論の余地は無いし、そんな当たり前のことを批判されるなら批判なんてすべきじゃないと言うかもしれない。その人の「信用ならん」は、その人にとって批判ではなく、当たり前のことを言っただけだ。

それでも、もし「信用ならん」と言う人とH氏が議論したらH氏が勝つだろうと思う。それはH氏にとってはよくある想定批判の一つでしかなく、反論は充分に用意しているだろう。

H氏の作ったネットサービスはたくさんの人を楽しませ、日本の一つの文化のような立ち位置を得た。何を批判され何を言われても悠々と論破する知性もある。しかし未払いや脱税で人を苦しめている側面もある。国外逃亡できるから何とかなっているのだと思う。

「脱税するようなH氏は信用ならん」と言う人が、議論に弱く批判を想定していないことは考えられる。脱税がいけないことは常識であり、常識をわざわざ疑ったり反論を想定するより、守る人生を歩んで仕事の質を高めたり、家族や自分、友人や取引先を幸せにするほうがいいから迷いなくそうしているだろう。迷ったり反論を想定するより、実行して信頼を積み重ねる人生を選ぶのは全くおかしくない。

それならH氏の噂をしなければいいだろうか?そんなことはないと思う。例えば子どもがいたとして、YouTubeでH氏に夢中になっていたらどうだろう。話し方や創造性に憧れて学ぶのは分かるけれど、憧れるあまりに“遅刻してもいい”などのゆるい考えにも傾倒したら、行き着く先にあるのは未払いや脱税かもしれず、批判的な噂をするのは妥当だと思う。いいとこ取りではなく真面目に全面的にH氏を信奉するのは危うい可能性がある。それは著書やYouTubeだけでは分からない。H氏の創造性や知性は素晴らしいが、生き方のアドバイスは話半分で聞いた方がいいと思う。そのことは噂話を通して子ども達に伝えられる可能性がある。

「何を言うかより誰が言うか」に学ぶのは「あえて隠していることはないか?」

影響力をそこまで持たない人間は、影響力の強い人間の言説から自分を守る必要がある。その人だから持ち合わせている海外逃亡などの選択肢を持たない人間にとって、影響力のある人間の考えをそのまま信奉して倣うのは危険だ。だから身を守るために批判的な噂をするのは妥当だと私は思う。

仮に、噂話をした人とインフルエンサーが議論したら、おそらくインフルエンサーが勝つだろう。だからといって、インフルエンサーが正しいとは限らない。

議論に強いことは、言葉を確からしく見せるし、勉強して考え抜いた思想であることを示す。しかしその思想が「生き方指南」に及ぶのであれば、指南する識者自身がその生き方を幸せに実行できる背景には何があるのかを見なければならない。議論に強い識者の言うことより、語り継がれた常識の方が人を幸せに導くかもしれない。お金はちゃんと支払う、税金はちゃんと支払う、遅刻はしない。その方が幸せに近づけるかもしれない。

「何を言うかより誰が言うか」とは、主張の背景に特別な要因があるなら、その主張が再現性に乏しいことを指摘する側面がある。特別な要因は主張の中であえて触れられないことも多いからだ。

希少な背景があるのであれば、その主張をまるごと信用するのは危うい。

言葉は、人に何かを伝える手段として有効だ。議論も手段の一つだが噂もその一つである。だから私は批判を真っ向から受け止めないタイプの常識的な主張を肯定する。常識を守りながらいちいち批判を想定する人の方が少ないし、その人たちが伝えてくれることには大きな価値があると思うからだ。

H氏は大変有名で影響力が強いのは確かだが、極端なケースではある。批判を否定することで自分の身を守って信者ビジネスを展開する人もいて、そういう人の姿勢は批判されて然るべきだと思う。しかし今回は、そうでないタイプの“批判を嫌う人”のことを書きたかった。主に常識を語る人たちのことを書きたかった。

批判に強いことは、正しさの証左ではない。私はこのように考えている。


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