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#4 私が生まれた頃の出来事

里帰り出産をした為、母の故郷で私は生まれた。大好きな実家では上げ膳据え膳の好待遇を受け、私に会いたい父の心情も顧みずになんと帰京拒否。父が迎えに来てしぶしぶ東京へ戻ったらしい。生後6か月の写真から始まるアルバムは、自分が撮ったものしか残したくなかった父の意地。

母は率先して何かをすることがない。分かりやすいくらい責任感がない。誰かが代わりにやってくれないかしらといつも考えている人だった。

そんな母は帰京後お手伝いさんを雇うように父へ提案。実家ではいつも誰かが私の世話を焼いてくれた。だから東京でも周りの人たちが私の為に頑張ってくれたらいいのよ、という思いだったのだろう。

大人になってからお手伝いさんが居たという事実を知った私は、疑問を投げかけたことがある。豪邸でもお金持ちでもない普通の家庭に何故お手伝いさんが必要だったのかと。それに対して母はさらりと言ってのけた。「あなたをお風呂に入れるのが嫌だったの。赤ちゃんってふにゃふにゃしてるし、じっとしてないから怖いもの。それをしなくて済むように雇ったのよ。」驚きすぎて返す言葉もなく黙っていると「パパは上手だったわよー」と付け足した。

思い返せば沐浴以前に私は母とお風呂に入った記憶がない。重い物は持たない主義と、弁当を母親に届けさせていたような母のこと、肩が痛くなるから嫌だと言ってほとんど抱っこもしなかったそうだ。そしてそれらを悪びれずに話してしまうのが母である。

また乳幼児は何かと予防接種の機会が多いが、母は同行せず知人に丸投げしていたと聞かされた。何故なら自分はとても神経質で繊細、注射針を見るだけで具合が悪くなってしまうからなんだとか。他にもベビーカーを真っ直ぐ進められずあちこちにぶつけるので父からベビーカーを押してはいけないと言われたとか、自転車に乗れないから私が体調不良になると父が病院に駆け込む役目だったとか。挙げればキリがない。

でもそうやって周囲に責任を押しつけた代償はすぐにやってきた。

短期間でお手伝いさんが辞めてしまったのだ。色々お世話になったからとお餞別を奮発して見送ったという。それから数か月後、上京の際に母親から貰った着物が一枚残らず消えていることに気づく。慌てて紹介所に電話をすると既にそこも辞めていて消息不明。まさに『盗っ人に追い銭』を地で行く形となった。

これを高い授業料だと猛省すれば救いはあったのに、どんな目に遭っても自分を変えないのが母。「他人に任せるからロクなことが起きないのね。これからはパパが頑張ればいいのよ」と思い直した。



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