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人間が生きることを肯定したい・15「こどもの時間」

『いたぞオーッ!
おい、いたよ、いたぜ、まったく参ったなあ、
アハハハハ、良かったなあ、生きてたよ』

~映画「こどもの時間」を観た
坂田明(ミュージシャン)が、
この映画は、
「絶滅していると思っていた
ニッポンカワウソを見つけたときのような、
しまいには涙声になる歓び」だと語った~      


屋久島へ一人旅をしてきた。
ほのかに杉の香りのする濃密な空気、
何千年も歳を重ねた樹木、太古の森。
人の生活・人に必要なものは、
円い島を縁取る車道ぞいに必要最小限にあるだけで、
あとはひたすら、山・森・海・川・滝・・・。

私はその島で、沢登りをしていた。
豊かな森は雨や雲を受け止めて膨大な水を蓄える。
この水が、屋久島の骨格を作る美しい花崗岩や変成岩をえぐり抜き、
磨きあげて、渓谷という壮大な芸術品を創り出す。
巨岩がゴロゴロしている渓谷を、
岩をよじ登り、水につかり、
早い流れを泳ぎながら、どんどん登って行く。
ドウドウと天から落ちる滝を間近に眺めながら、
大きな岩のてっぺんでごはんを頬張る。

ところどころに隕石が落ちたように岩がくりぬかれて、
天然のプールか、または井戸のようになっているところがある。
岩のふちから、何メートルか下の水面をめがけ、思いきって飛びこむ。
身を切る冷たい水が一瞬で全身に染み、
衝撃とともに重く抱かれたとき、
私は何週間か前に観た「こどもの時間」という映画の中の、
ある子供の顔が脳裏に浮んだのだった。

「こどもの時間」という映画は、
埼玉県にある「いなほ保育園」の子供たちを、
6年間、ただただ撮り続けたドキュメンタリー作品である。
映像も音も、いなほ保育園に在るものだけ。
いなほの子供たちには、もう唖然とする。
なんだろう、あの子たちは「こども」なのだ。
頭のてっぺんから足の先まで、正真正銘の「こども」たちなのだ。
「こども」って、こういう人たちだったんだ。
知っていたつもりだったのに、なにも知らなかった。

いなほ保育園は、和子さんという園長先生と、
その旦那さんのキンタさん、
その他数人の経験を積んだ保母さんたちが、
14年かけて作った無認可の保育園だ。
4000坪という敷地の中に、
畑がある、林がある、山羊がいる、馬がいる、ロバがいる、鶏がいる、
大きな木造の園舎がある、手作りのプールがある・・・、
そしてその中で、
100人の子供たちと、
子供たちと見分けのつかない大人たちが、
「人生のはじまりの時間」を日々過ごしている。

映画を観ている方は、とにかくハラハラヒヤヒヤしどおしだ。
外に置いてある木の机の上に焼き魚を直接おいて、
手づかみで食べる2歳児、
数人がかりで大きなフライパンをふらふら持ちながら、
勝手に焚き火をして、オコゲごはんを炊く5歳児たち、
竹馬で、細い橋を器用にケンケンで渡る子たち、
土や川を、ある子は裸足で、ある子は片方だけ靴をはいて、
ある子は片方づつ違う靴をはいて、どんどん歩く。

「あー、危ない!」「いたい、いたい・・・」「汚いよぉ」

そんな言葉を必死で呑み込みながら、
観客は食い入るようにスクリーンの中の子供たちに見入る。
どの子もなんと生き生きしていること!
大げさでなく、子供特有の弾けるような生命の力を感じる。
足が地面をつかむ、
冷たい風が頬を切る、
焚き火の熱さが頬を焼く、
自分で育てたスイカを手づかみで食べる、
馬や山羊に餌をやる、
卒園式の自分の衣装を針と糸で縫う、
イビキをかきながらみんなで眠る、
本気で笑う、本気で泣く、本気で恐がる、
ああ、ヒトのココロは、こうして育って行くのだ。

映画を見終わった後、ふたりのお母さんらしき人が、
こう言い合っていた。
「確かにああいうふうに育ててあげたいと思うけれど、
実際は難しいわよねえ・・・。」
そうだろう。難しいと思う。
自由にさせたせいで怪我をしたら、
不潔のせいで病気になったら、誰の責任になる?
大事故がおきたら、保育園の運営はどうなる?
でも、100人の子供たちは、みんなこう思っているのだ。

「和子は園長先生だから、
おいらたち(わたしたち)の命を守ってくれる。
だから和子はえらいんだ。
おいらたちは、和子の言うことはちゃんと聞く。」

子供たちは、ちゃんと「わかっている」。
大丈夫。
外部のお節介な心配を寄せ付けないほどの信頼関係が、
いなほにはある。
そして先生たちの真摯な育児方針、情熱、勇気、覚悟が、
映画では見えないところでいなほを守っている。

自由にさせること・子供の意思を尊重することと、
放ったらかしにすることは正反対に位置する。
自由にさせること・子供の意思を尊重することは、
管理して、あれもこれも禁止することよりもずっと、
辛抱と鋭い目が必要になる。

いなほの子供たちに共通すること、
それは「自分で考えて、自分で決めている」ということだ。
コウキくんという子が、
自分の体よりも大きい飼葉桶に、体ごと入りこんで、
大量の干草を両手で抱えられる分ずつ、
馬や山羊のために運んで行く。
分量を考えては頭をかしげ、
馬が食べる様子を見ては腕を組む。
まだ腕が短くて、ちゃんと組めないような子供なのに、
ものすごい真剣さが伝わってくる。
その姿は、微笑ましくも、誇り高く見えた。

さて、この映画で私が一番印象的だったシーンは、
顔も手もぷくぷくした、ふっくらぽんちゃんが、
水道から流れ出る水に手をひたして、
さも嬉しそうに、ニコニコ笑っているシーンである。
手にさわる水の感触を、心から楽しんでいる様子だ。
いつまでもいつまでも飽きない。
飽きずにずっと、水の流れに手をひたしている。
このシーンこそ、私が屋久島で水に抱かれた瞬間、
思い出したシーンだったのだ。

どう言えばいいのだろう。
水そのものの手ざわりを楽しむ感覚、
風そのもののさやけさを楽しむ感覚、
土そのものの柔らかさを楽しむ感覚、
木そのものの匂いを楽しむ感覚、
これらは、本来持っている私たちの身体感覚だ。
この身体感覚を開いて自然を受け入れたとき、
人はものすごい喜びと不思議さを味わう気がする。
それはきっと、存在そのものの喜びであり、
不思議さなのだ。
滝行を長くやっていると、
だんだん自分の体が大きくなって、
滝のてっぺんまで身体感覚が伸びて行くという。
それをさらに拡散していって得られる自然との融合感が、
名状しがたい感動をもたらすらしい。

第10号でも紹介した、
寺門琢己×田口ランディ対談集、
「からだのひみつ」の中で、
田口ランディがこんなことを言っている。

「自分の娘が三歳になって、
彼女と日常を共にしていると、
彼女の心臓がバクバクしているのがわかるんだ。
だって考えてみたら三歳児は社会システムなんて把握していない。
この世界がどんな仕組みで成り立っているのかなんて理解していない。
だから、ナマの世界そのものとせめぎあいながら暮らしている。
大人の私よりずっと、この世界全部を受け止めて生きている。
三歳児の世界はとってもレアなんだ。
ちっちゃな身体で世界を引き受けている。
子供はそこんとこがカッコイイ。
この頃、小さな子供たちを見ていると「凄いなあ」って思う。
けなげであるという点において。
大人は絶対に子供にはかなわない。
社会の仕組みに頼って生きている大人と違い、
子供はこの不条理な世界を丸ごと把握している。
だから子供って哲学者みたいなことを言うんだろう。」

だから子供は、生きているだけで精一杯頑張っていて、
大人みたいに仕事なんかなくても、
日常で手一杯な「生活者」なのだと。
毎日とっても忙しそうなのだと。
確かに、いなほの子供たちも、とても忙しそうだった。
忙しそうで、楽しそうで、
生きてそこに在ることが、素直に輝かしかった。

「子供は純真無垢」なんて言うと、
「いや、子供は案外こわいよ。」としたり顔で言う人が必ずいるが、
子供というのは、純真無垢というよりも、
普通の大人には想像もつかないほど「開かれた」人たちなのだ。
想像もつかないほど、
柔軟でしなやかな人たちなのだ。
だからこそ、故意に歪めよう、染めようとすれば、
簡単に芯の方まで歪むし、染まるだろう。
そういう意味では、信じられないほどこわい子供もいるだろう。

実感として思うのだが、
大人になってから都会に住んでいると、
子供のように身体感覚を開いたままでは、
とても無事には過ごせない気がする。
必要なものと不必要なものを無意識に取捨選択して、
見たくないものからは意識をシャットダウンしなくては、
情報過多で雑然とした世界に、おそらく正気ではいられない。
実際、屋久島でちょっとばかり身体感覚が開かれただけの私でも、
それまでなんともなかった朝のラッシュと人ごみに、
てきめんに気分が悪くなってしまったのだ。
しかしそれも、また次第に慣れて、今はまたなんともない。
都会に住んでいれば、身体感覚を忘れ、開きにくくなるのも道理だ。

でも私は別に、都会を否定しない。
私は都会に生きる人だし、
私の大切な人々も皆、都会に生きている。
都会にあるものもまた、人にとって必要だ。
私が言いたいのは、
私たち大人は皆例外なく「かつて子供だった人」だということだ。
例え開きにくくても、普段は閉じてしまっていても、
生まれながらに身体感覚を持っている。
これは肉体を与えられているからこその恩恵だ。
第11号のテーマとも繋がってくる。
肉体は、世界と繋がるために不可欠なものなのではないのかと。

つまづいて、もう歩けないと思ったら、
与えられた身体を開いて、ただ感じてみればいい。
水の手ざわりを。風のさやけさを。土の柔らかさを。木の匂いを。
そうすれば、森羅万象すべての中に、
人を生かす力が満ちていることに気づくだろう。

この世界は人間だけのものではないが、
人間は世界に嫌われているものでもない。
自分は、すべてのものと同時に、存在を許されているもの。
生きてそこに在るだけで、素直に輝かしいもの。
私と世界に、区別はない。


=====DEAR読者のみなさま=====


人間は「考えすぎ」ているのかもしれませんね。
神様って、考えるものでも、信じるものでもなくて、
心や身体が「感じる」もののような気がします。

神様なんてものを「考えすぎ」て、
そこに無理やり意味を見出そうとするから、争いたくなるんだ。
あの神も、この神も、本当はすべて同じもの。
この世界そのもの。
あの国の人も、この国の人も、
本当はすべて同じもの。
この世界そのもの。
ひとりひとりの心に思い描く世界が、
曼荼羅のようにひとつになって、
複雑に精妙に、現実の世界に具現化していきます。
今こそ、ひとりひとりの心のあり方が、心の中のイメージが、
大切な時だと思うのです。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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