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人間が生きることを肯定したい・3「目に見えぬもの『言葉』」

『じゃあ、呪いを吐いてしまったら、それを取り消すためにはどうしたらいいか。これも実に簡単である。「あれは嘘だ」と伝えればいいのである。「あれは呪いの言葉だった。本当の心ではなかったんだよ~、呪ってごめんなさい」と言葉にすればいいのである。』~「田口ランディのコラムマガジン」2000.8.30より~


日本を自慢する呼び方のひとつに、「言霊のさきわう国」というものがある。
言葉の力によって、幸いを恵まれる国、という意味である。
日本人は、日本語の美しさを、とても誇りに思っていたのだろう。
確かに私も、例えばお正月に皆で百人一首で遊んでいると、
その言葉の流れ、響きの美しさには惚れぼれしてしまう。

「言霊」とは、言葉自身に何か力があって、人間を支配すると考えたときの、その不思議な力を指す。
古代の日本人は、言葉には精霊が宿ると信じていて、その霊妙な力は、人間の幸・不幸をも左右すると考えていたらしい。
確かに、日本の民族文化の中の、祝詞・万葉集・仏教などには、その呪力信仰が、色濃く残る。
ひとつ例えを出すならば、除夜や節分の日の「成木責め」という風習がある。一人が斧を持って、果樹に向かって「来年、なるかならぬか!」と言うと、樹の上に登ったもう一人が「なりましょう、なりましょう」と言って、
果樹が実をたくさんならせるように、責める風習である。

・・・と、偉そうに書いてみたが、私も民俗学的なことは、全然詳しくない。
ただ、「言葉の力」というものは、なんとなく信じている気がする。
子供の頃から、何よりも書くことが好きだったし、読むことが好きだった。
言葉とは不思議なものである。
人間が創造したものでありながら、
人間の想像の範疇を超える何かがある気がするのである。

冒頭の一節は、
「田口ランディのコラムマガジン」というメルマガから引用した。
「呪いを解く魔法」という題名だった。
呪い、などというと、何かおどろおどろしいが、私たちは普段、つい呪いに似た言葉を言ってしまっていないか。
「もういやだ」「サイテー」「どうしようもないよ」「うるせえ」「うざい」「あんたなんか何もわかっていない」「もういいよ」「ふざけんな」
「あんたには関係ない」「誰も頼んでない」などなど、
繰り返し繰り返し口にしていれば、心が病んでいくような言葉を。
それらの言葉は、力となって、自分にも相手にも、影響を及ぼす。
それが相手に向けられたものであれば、相手の心を呪縛し、自分に向けられたものであれば、自分の心を蝕む。
そういう言葉を、心がネガティブになったり、相手に腹を立てると、私たちはついつい吐いてしまう。

逆に、「あー幸せだな」「楽しいね」「嬉しいね」「面白かった」「ありがとう」「ごめんね」「助かったよ」などなど、
優しい気持ちで口にした言葉は、人に良い作用を及ぼす。
つい吐いてしまった呪いの言葉も、「ごめんね、うそだよ」と、口に出して言ってあげれば取り消されるよ、と田口ランディは言うのである。

つまり、何か特別な呪文やら、お経やらを唱えなくたって、言葉には「力」があると言っているのだ。
普段、何気なく口にする言葉、文章にする言葉にも「力」がある。

ただ、ここでいう「力」とは、言葉そのものの意味というよりは、正に、その言葉が内包している「言霊」に近いものだと思う。
例えば、同じ「ばかだね」という言葉でも、相手を愛しく思いながら言う「ばかだね」と、憎々しく軽蔑して言う「ばかだね」とでは、作用する力が全く違ってくるというのは、誰でもわかると思う。
「ちぇっ!」と舌打ちされたとき、「ちぇ」という言葉にはなんの意味もないが、その言葉は、相手の心に一点の汚れた染みをつけるだろう。

前回のメルマガで「思いや祈りを波動のようなものと考えてみる」と、私は書いた。
ここで、またひとつ、「聞きかじり」の知識を披露したい。
物質とはごくごく微小な粒子の集まりであるが、個々の粒子が別々の独立した存在だと考えられていたのは、古くニュートンの時代の話だそうである。物質には原理的に波動性が含まれていて、「波動関数」として数学的に扱われるその波動は、現代物理学においては、どんな粒子も個々別々のものではあり得ない、というよりも、私たちが頭で想像するような粒子ではないのだそうだ。
物質には原理的に波動性が含まれていて、波動関数」として数学的に扱われるその波動は、中心に最大の存在確率を持つが、すそは無限の遠方まで広がり、互いの時間と空間を共有しているという。
つまり、この世界の物理的事象のすべては、結局互いに触れ合い、時空を共有する、波動の相互作用だということだ。
原理的には、それは全体として一つであり、とてつもなく巨大な一個のエネルギーのうねりと言える。
だが、ご承知のように、それを人知で捉え切ることは不可能なので、便宜上、要素を分解して考え、「近似値的な」観測を行い、「近似値的な」理論を展開させたものが、私たちになじみ深い、”科学”なのである。

私の五感でとらえるぶんには、私と他人は「別のもの」だし、私と机も「別のもの」だ。
けれど、深い深いレベルでは、それらはつながっているという。
他でもない”科学”が、そのことを露呈しているのだ。
確固たる存在としてそこに在るように見える物質でさえ、本当は揺らいでいて、時とともに形を変える。
目には見えないが、揺らいでいる。
そういう世界で、祈りの念が、言葉の響きが、波動として「巨大な一個のエネルギーのうねり」に影響を及ぼし、遠く離れた場所に届くと考えても、それが自然のような気がしてくる。

言葉は、それを発した人の「心」を乗せた響きになる。
言葉に込められた「心」の波動を、古代の人々は「言霊」と呼んだのかもしれない。

結局、私の伝えたかったことは、前回と同じなのである。
優しい言葉は、優しい波動となり、
呪いの言葉は、呪いの波動となる。
呪いの波動は、人間の心のリズムを狂わせるだろう。
だから、どんなに落ち込んでも、自分を追い詰めるだけの言葉は口にしない方がいい。
どんなに相手に腹が立っても、相手を傷つけるためだけの汚い言葉は使わないでほしい。

難しいけれど、私もつい、呪いの言葉を吐いてしまうけれど、そこでぐっとふんばって、無理やりにでも優しい言葉を口にしてみれば、優しい波動が帰ってきて、きっと自分の心も相手の心もまるくしてくれるに違いない。

=====DEAR読者のみなさま=====

補足しておくと、私は「不満に思ったことでも、我慢して言わないでおいたほうがいい」って言ってるんじゃないですよ!
むしろ、心に強く思ったことを口にしないのは、自分の中でわだかまりとなって、どろどろに積もっていって、やっぱり自分を蝕んだり、いつか嫌な形で爆発してしまう可能性が高いので、良くないのでは、と思っています。
ただ、言うんなら、正直な気持ちを込めて、なんでイヤなのか、なにがイヤなのか、どうしたいのか、どうしてほしいのか、ちゃんと意味を込めた言葉にしてほしい、と思っているのです。それは、苦しくて苦しくて、ただ傷つけたいだけの、呪詛の言葉とは違います。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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