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河合隼雄を学ぶ・5「子どもの宇宙」

子どもたちひとりひとりのなかには、無限の広がりと深さをもった宇宙が存在している。

しかし、大人は子どもを大きくしようと焦る余り、子どもたちの中にある広大な宇宙を歪曲したり、回復困難なほどに破壊したりする。それは、教育とか、指導とか、善意とか、愛情とかいう名のもとになされる。

この本は、そのことに対する、河合隼雄の警告の書といっていいだろう。河合隼雄は、心理療法家として、子どもの宇宙が圧殺されるときの、子どもたちの悲痛な叫びを、たくさん聞いてきたからだ。

河合隼雄は、子どもたちが「透徹した目」で日々発見している宇宙のさまを、優れた子どもの本から感じとり、私たちにその素晴らしさを伝えようとしている。

第1章で紹介されている、2歳のひろしくんの詩は印象的だ。

おほしさんが
一つでた
とうちゃんが
かえってくるで

ひろしくんにとって、とうちゃんは空に輝き出てくる星であり、そしておそらく、この父親にとってもひろしくんは希望の星なのだろう、と河合隼雄は述べる。2つの星が宇宙の中で輝き合い、交信し合っているさまを、2歳の子が無垢なつぶやきが見事に表現している。

【子どもと家族】

家族の中には、憎まれっ子だったり、問題を起こして親を困らせる子がいるだろう。

しかし子どもは、「あなたが必要だ」というたった一言を親から聞きたいがために、暴れたり、家出をしたりしているのだ。

子どもの問題行動は、親の閉塞状況を打ち破らんとするための、「変革者」としての行動である場合もある。例として、横暴な父に逆らえない母の代理として、子どもは不登校や暴力を繰り返し、母に「あなたは変わるべきだ!」と訴えるのだ。もちろん、子どもはそんなことは意識はしていない。ただやむにやまれずそうしているのだが、母親が少しずつ変わるにつれ、子どもの問題もなりを潜めていく。

【子どもと時空】

日常の世界を『こちら側の世界』だとすると、不思議な、未知の『あちら側の世界』があることを、子どもたちは知っているし、時にはふいに通路が開けて、『あちら側の世界』を体験したりする。

こちら側の世界では、子どもたちは成績や技術でのみ評価されるが、『あちら側の世界』で子どもが体験したことについては、大人には秘密にされていて、なかなかその意味に触れることができない。しかし、成績では評価しきれないことがある、と知りながら子どもたちを見ることは大切だろう。河合隼雄は、私たち大人が、子どもに愛情を注ごうとするとき、子どもに愛情を流し込むための「通路」を、私たち大人のほうが持っているのか、流し込んでいる気になっているだけではないのか、と問いかけてくる。最初は「通路」が見えなくても、焦らずにその子を観察し、待っていると、通路は自然に開かれてくることが多いという。

【子どもと老人】

ここでは、カニグズバーグの「ジョコンダ夫人の肖像』が紹介されている。

レオナルド・ダ・ヴィンチが、うそつきで、こそどろで、強情なサライという少年を徒弟にして大切にしていた、という不思議な事実がある。

なぜレオナルドはサライを大切にしたのか、その疑問から生まれたのがこの作品だ。結論からいうと、サライはレオナルドの芸術の導者だったのである。

そのことは、ベアトリチェという女性のセリフで表現されている。

「彼には、荒々しい要素が必要なの。すべての偉大な芸術には、それが必要よ。跳躍するもの、はばたくものがね。……サライ、レオナルド先生が、いつも何か荒々しいもの、何か責任に縛られないものを持ち続けられるよう、おまえに気をつけていてもらいたいの」

天才レオナルドがその努力によってあまりにも計算された完成をめざすとき、それを打ち破るワイルドなものを、サライの存在が入れ込むのである。

この、サライのようなタイプの魂の導者を、「トリックスター」という。トリックスターの自由さや、ときに悪すれすれの在り方は、一般常識に縛られずに真実を見る能力に繋がり、既存の権威を突き崩す破壊力を持っている。が、それは危険と紙一重でもある。

【子どもと死】

私たち大人は、子どもを死ということから、最も縁遠い存在としておきたい。

しかし、子どもは3、4歳といったかなり幼い頃から、死について意識し、考えている。自分の子どもから、突然、真剣で、切羽詰まった様子で「人はなぜ死ぬの」「死んだらどうなるの」と問いかけられたら、どういう態度で、どう答えるだろうか。

こんなとき、私たち大人も、精一杯心を開いて、正直に、真剣に、子どもに向き合いたい。

また、子どもはその成長の過程の中で、死と再生を繰り返しながら大人になっていく。思春期の子の自殺は、「さなぎ」が蝶になれるという希望が持てず、早晩、完成された子どもとしての自分が壊される、あるいは、汚されるだろうという予感が生じてきて、その完成を守るために自殺するなどということもあるのではないか、と河合隼雄は述べている。

また、河合隼雄が遊戯療法などを行うとき、家族内において、なんらかの理由でおざなりにされた弔いや喪の仕事を、その家の子どもが一身に背負っていて、そのために原因不明の症状が出ているとしか思えないケースがあるという。大人が大切な人の死に向き合えないでいるとき、子どもがそれを促すために病気になる、ということがあるのかもしれない。

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この他にも、この本では、子どもと秘密、子どもと動物、子どもと異性、という観点で子どもの宇宙の広がりを考察している。

河合隼雄はあとがきの中で、こんなふうに言っている。

『子どもの心の心理療法は、あくまで子どもの宇宙への畏敬の念を基礎として行われる。畏敬すべきこれほどの存在に対して、「教育者」「指導者」と自認する人たちが、それを圧殺することにどれほど加担しているか、そのことを知っていただきたいのである。魂の殺害は、制度や法律によって防ぐことは不可能である。それは個人ひとりひとりの深い自覚によってのみ可能となる』

このあとがきに込められた河合隼雄の熱い怒りと願いを、私は忘れないようにしようと思う。


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