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河合隼雄を学ぶ・21「日本人の心を解く~夢・神話・物語の深層へ~①」

本書は、スイスのアスコナでの「エラノス会議」で1983年から1988年になされた5つの講義の記録である。エラノス会議とは、ユングが東西の思想の出会いを求めてはじめた学際的な会議である。ユング派の人たちのとっては「雲の上のような存在」の会議であると書かれている。

そこに河合隼雄が5回も招待されて発表した内容が本書の元になっている。そのことからして、本書に取り上げられている「夢・日本神話・日本の昔話・とりかへばや」といったテーマは、河合隼雄の研究の中核にあったといえるだろう。

中でも、第四章「日本の昔話--美的な解決--」に書かれていた「完成美」と「完全美」に関する考察は、圧巻であった。

こんなエピソードが紹介されている。

ある若い僧が庭を掃いていた。彼は自分の仕事をできる限りやろうと努めていた。彼は庭を完璧に掃除したので、庭にはなんの塵も落ちていなかった。だが、彼の期待に反して、老師は彼の仕事に満足していなかった。若い僧はしばし考えてから木を揺さぶって、枯れ葉が庭のあちこちに落ちてくるようにした。老師はそれを見て微笑んだ。

河合隼雄はこれを「完全美」と呼んでいる。若い僧が、何の塵も落ちていない庭に掃除しようとしたときには、「完成美」が目指されていた。少し枯れ葉が落ちている庭、というのが「完全美」である。

「完成美」が、醜いものを全て拒否することによって達成されるのに対して、「完全美」には必ずしも美しくないものも含まれるのである。

日本人はよく、「未完成の美」を好むと言われるが、河合隼雄は「未完成の美」というよりも、「完全美」を日本人は高く評価するのだ、と述べている。

日本人が感じる「完全美」とはどのようなものか。それを日本の昔話を題材にして考察している。

こと古代日本において、美的価値と倫理的価値は分けることができなかった。「美」というのは、日本文化を理解するためには、おそらく最も重要な要素であろうと河合隼雄はいう。

例えば浦島太郎の話。竜宮、つまり竜の宮殿と聞くと、西洋人は竜との戦いを連想するが、日本人はそこから宮殿の美しさを連想する。実際、浦島太郎の話では、竜宮における四季の美しさの描写がえんえんと続く。西洋の象徴が人間から構成されるのに対し、日本の象徴は自然から成り立っている。

ほとんど全ての浦島太郎の物語は、浦島が玉手箱を開けて、不幸な結末を迎える。不幸な結末を避けるような類話もあるが、その結末はというと、「鶴(浦島)が松の木の上を飛び、亀(乙姫)が岸辺にあがってくる」という風景を描いている。この結末も、不幸ではないが、西洋人が期待するものとは異なるであろう。日本人にとって、自然の美の風景は、男女が結婚しました、というような物語の幸せな結末よりも望ましく、心にしっくりくるのである。

類似するものとして、古事記におけるホヲリとトヨタマヒメの話がある。ホヲリはトヨタマヒメが巨大な鰐になって子を産んでいるところをのぞいてしまう。トヨタマヒメは恥ずかしく思い、子を置いて立ち去ってしまう。最後、トヨタマヒメとホヲリは、お互いを想い合う歌を交換する。

トヨタマヒメの葛藤(正体を見られたことへの恥ずかしさ、怒りと夫への思慕)が、歌の交換という形で解決されている。これを「葛藤の美的解決」と呼んでいる。

また、昔話においては、「禁じられた部屋」というテーマも多い。西洋において、「禁じられた部屋」を覗いてしまうと、そこにあるのはゾッとするようなものである(「青髭」など)。一方、日本の昔話である「夕鶴」や「うぐいすの里」では、主人公はそこに多くの宝物や、「梅にうぐいす」といった愛でられるもの、四季の移り変わりを反映しているような一連のイメージを見る。

もっとも、古事記において、イザナキが禁じられた部屋を覗いて、見てしまったものは、イザナミのゾッとするような姿であった。イザナミは怒り、追いかけてくるが、最後には戦いや罰の代わりに、妥協がなされる。(イザナミは毎日千人殺し、イザナキは毎日千五百の産屋を建てる)このように、日本神話においては、対をなすもの同士の間で、戦いの代わりに多くの重要な妥協がなされるのである。

ちなみに、日本神話や昔話では、禁を破った者への「罰」よりも、女神や女房のほうの「恥」のほうがより強調される。「日本においては、女神があまりにも恥ずかしく思うので、人間が現在を犯す余地がない」、と河合隼雄は考察する。日本人の意識は、原罪というものなしに成立している。しかしながら、文化において支配的な原理である女性の恐ろしい側面(グレートマザー)を、神々が見ることが必要なのである。

そして、イザナキは地上に帰ってきて、まず禊をする。これは、非常に重要なことで、日本人の心性をあらわす。つまり、日本人にとって、穢れの清めは罪の贖いよりもはるかに重要なのである。日本人にとって清らかさは非常に重要で、「完全な清らかさ」は、日本人が求める理想であろうと、河合隼雄は考察している。

日本人の美的感覚の話に戻る。

日本において、幸せな結末よりも、美しい結末がはるかに好まれる例として、「花女房」が挙げられている。

若い馬子のところに、かわいらしい女が来て、おしかけ女房になる。ある日、馬子は刈ってきた草の中に、月見草のきれいな花が一本あったのを女房に見せようとすると、女房は倒れている。女房は月見草の精であり、馬子の歌に惚れて女房になった。しかし「私の命もこれまで。今までありがとう」といって女房は死んでしまう。

これは、悲劇的な物語ではあるが、美しい。花がとりわけ美しいのは、その背後に死(はかなさ)が存在するからであると、河合隼雄はいう。あるいは、花が美しいのは、それに深い悲しみの感情が伴うときだけである、と。

うぐいすの里の物語も、花女房の物語も、自然の美をあらわしている。しかし、これらの物語は、聴き手の心に生じてくる感情を考慮に入れて、はじめて完全なものになる。聴き手は不幸な結末にショックを受け、悲しみを感じなければならない。この感情が美についての物語を完全なものにするために必要なのである。

美は、悲しみの感情が伴うときだけに、完全なものになる。

西洋の物語にも、日本の昔話にも、美しい女性が登場する。西洋の物語において、主人公が戦いのすえ、最後に女性の獲得に成功するのは、倫理的な次元での完全性、「完成美」であろう。それに対して日本の物語においては、美しい女性がただ姿を消したり、死んだりして、深い悲しみの感情を残す。これは美的な次元での完全性、「完全美」を象徴している。

昔話において、死はもはや、穢れとは結びつけられていない。それは「完全美」の一部となっている。

日本の昔話は、世界は美しく、われわれが死の存在を受け入れる限りにおいて、美が完全なものになることを物語ってくれていると、河合隼雄は結んでいる。








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