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人間が生きることを肯定したい・18「”生きる価値”の落とし穴」

『生きていることには本当に意味がたくさんあって、
星の数ほど、もうおぼえきれないほどの美しいシーンが
私の魂を埋めつくしているのだが、
生きていることに意味をもたせようとするなんて、
そんな貧しくてみにくいことは、
もう一生よそう、と思った。』

吉本ばなな著「体は全部知っている」より
        

久しぶりにこういう本に出会ったなあ、と思った。
私は「これは」という本に出会うと、
読み終わるのがもったいなくて、
読んでいる途中でふと表紙をながめたり、
背表紙をなでてみたりする癖がある。
長らく読んでいなかった作家の短編集だが、
「体は全部知っている」というタイトルと、
「神様はもしかして人間を愛しているのかもしれない。」
という帯のキャッチコピーに惹かれて手に取った。
これが珠玉の一冊だった。
一編読み終わるごとに、ぽろりと涙が一粒こぼれた。
号泣するという感じではなく、涙ぐむだけでもすまない。
必ず一粒、涙がこぼれた。

冒頭の文章は「おやじの味」というお話の最後の部分である。
会社のどうしようもない男に失恋して
音もなく会社を辞めた主人公が、
母親と別居して山小屋に住んでいる父親のもとにでかける。
何も癒されたいと思ってでかけるのではなく、
家にこもりきりの自分を心配した母親がノイローゼぎみになってきたので、
勧められるまま仕方なくでかける。
山小屋に向かう車中に毛虫がいて、
それに大騒ぎをする自分に主人公はとても驚く。


『・・・こんな調子で私はどれだけの感受性を
すりへらしてきたのだろう?
だって小さい頃、私はびんに毛虫を集めてまた放してあげたりした。
草の中で次々に飛ぶ草よりも明るい緑のバッタをながめていた。
塀にとまった蝶をぱっと捕まえ、じっと眺めてから手を離したりもした。
私はめったに殺さなかった。
ただ触り、眺めた。
蛾の卵がガラスにきらきら透けて、
中に生命が動いているのを見たりもした。
世界はぞっとするくらい広かった。
なぜ、今、私はどれも感じられないのだろう。
空はあたりまえに空で、地面はただ土色だ。
そこには無限に渦巻く蝶の羽の模様ほどの奥深さもなくなってしまった』


しかし山小屋での生活は、
やったことはやった分だけの快適をもたらし、
主人公は知らず知らずに体を動かすようになる。
失恋した彼の顔は浮ばなくなり、
パンを買う時はパンのことだけを考えるようになる。
舗装された道路やスーパーがあるニセの田舎生活でも、
自分は確かに何かを失っていたのだと気づく。


『今、あの頃のことを考えると
頭だけが浮かんで生活している宇宙人達が思い浮かぶ。
体はなく、頭だけがあれこれ考えて、
ぼんやりと水のような中をくらげみたいに
行ったり来たりしているような感じがした。
性別もなく、欲望もない。思うように動けない。
そういう感じがした』


そして彼を好きだと思っていたのも、
仕事でばたばた忙しくしていたのも、
ひまだったからだと思う。
時間は今の方がたくさんあるのに、
自分自身の内面はあの頃のほうがよほどひまだったのだと。


『自分に自信がなくって、
生きていることに罪悪感があったから、
自分を好きと言って言い寄ってくれた人を
貴重に思わなくてはいけない、と思ってしまったのだ。
本当に好きだったのなら、
気が狂うほど泣いて本当に狂ってしまったとしても、
雨にうたれる木々のように色鮮やかだろう』


窓のそとで木々が雨に濡れそぼるのをじっとながめる、
静かで深遠で官能的な描写のあと、
父親の作った懐かしい味のオムレツを食べながら、
主人公は冒頭のセリフにたどりつく。

「生きていることに意味をもたせようとする」

この言葉に私は心底どきっとした。
これこそ、人間だけが陥りやすい罠なのではないかと。

最近、自分の身近ではないものの、
自殺未遂騒ぎに少し巻き込まれた。
自殺しようとした人はこう言っていた。

「私には生きる価値がない。」

「私なんて生きる価値はない。」
「私なんて生きていても意味がない。」
「こいつは生きる資格がない。」
よく聞く言葉である。
それは裏返せば、人がどうしようもなく、
自分の生きる意味や価値を見出したいと切望する生き物だということだ。

何故人はこんなにも生きることに意味や価値を求めるんだろう。
いわゆる「生きがい」がないことに、
こんなにも罪悪感や劣等感や虚無感を感じるのだろう。
人間以外の動物や、植物や、まだ言葉を持たぬ赤ん坊の、
爆発的で迷いのない生命力を見ていると、
人間は思考し、さらに言葉を持ったがために、
わざわざ袋小路に迷いこんでいる気がしてくる。

なぜ人間だけが生きることそれ自体に悩まねばならないのだろう。
神様もいじわるだな、
どうして人間だけが、
生きる価値を悩んで苦しんで模索しなければいけないんだろう。
私はそんなそうに考えた。

けれど、ある日のふとした一瞬の出来事が、その考えを吹き飛ばした。

電車のドアによりかかりながら、
ぼんやり窓の外を見ていた。
しばらくの間、建物に挟まれた窮屈な線路を走っていた。
電車がそこを抜けたとき、唐突に視界が開けた。
途端に暖かな陽の光が一斉に電車の中に差し込んできて、
体がふんわり温かくなった。
そのとき感じたのだ。

「ああなんだ、いつも目の前に見せてくれているじゃないか」と。

いつもいつも私の周りにあるもの、
この世界そのものが、神様の「しるし」じゃないかと。
毎日休まずに降り注ぐ陽の光さえ、
見て感じようとしないのは、人間の側の勝手じゃないかと。

例えば目の前のテーブルに、
大きくておいしそうなケーキがどんっとのっていたとする。
すると人間はわざわざ目隠しをして、鼻もつまんでから、
「あーあ、おいしいものが食べたいのに何もないな。
甘いものが食べたいのに、この世には甘いものなんてないんだ。
甘いものがなければ生きている意味なんてないのに。」
と絶望し、嘆く。

そして見えない目で一生懸命幻のケーキを作っては、
うまくできない、全然甘くない、
また消えた、もういやだ、もうだめだと再び嘆く。
ただ鼻をつまむのをやめて目隠しをとれば、
目の前には本物のケーキがあって、
それを遠慮なく食べれば、すごく幸せになれるのに。

陽の光も水も大地も空気も生き物も、
みんな神様が用意してくれたケーキだ。
食べても食べてもなくならないとっておきのケーキだ。
だけど世界は目隠しをしている人だらけで、
目隠しなんかせず、感謝してケーキを食べている人々は、
今の時代「変わり者」のように見られている。
どう考えても、後者の行いのほうが自然なのに。

さて、では私の目隠しはなんだろう。
あなたの目隠しはなんだろう。

まずは目隠しをされていること自体に気づかねばならない。
そしてその目隠しがなんなのか考えなくてはならない。
思い当たったらそこで、目隠しをとればいいと思う。
一言に目隠しといっても、その種類は人によって違う。

ある人の目隠しはマテリアリズムへの盲信かもしれないし、
ある人の目隠しは余りに煩雑な日常生活かもしれないし、
ある人の目隠しは愛している(と思い込んでいる)人への
強い執着かもしれないし、
ある人の目隠しは頑固なコンプレックスかもしれないし、
ある人の目隠しは過去の辛い体験かもしれないし、
ある人の目隠しは幼い頃、親にされたままのものかもしれない。

ずっと長いこと目隠しをしたままだったので、
目隠しをしていることが自然になってしまっていて、
あるとき思い立ってとろうとしても、
固い固いかた結びでなかなかとれないかもしれない。
でも大丈夫。
それはあくまで目隠しであって、
目をつぶされたわけではないから。
本気でとろうと思えば必ずとれるものだし、
目隠しがとれさえすればケーキは必ず見えるのだ。
ケーキはいつだって、変わらず目の前に用意されている。


=====DEAR読者のみなさま=====


自殺未遂騒ぎをおこした人の、
「私は生きる価値なんてない。」という言葉を聞いたとき、
私は咄嗟に、
「生きる価値」ってなんて危うい、
罪な言葉だろうと痛感しました。
そんなものは人間が生み出した言葉の遊びだと。

「この人と出会うために私は生まれたんだ。」
「この人を愛すること(またはこの人に愛されること)が、
私の生きがいだ。」

これらも、美しいようでいて、
歯車が少し違えば、自分の首を真綿でしめる言葉の罠です。

人を愛すること、
人から愛されること、
好きな仕事ができること、
趣味が充実していること・・・、
それらは人生を楽しむための重要な要素であるけれども、
「生きている価値」そのものではないように思います。
でもそれらは「生きる価値」と非常に取り違えやすい。
取り違えても仕方ないほど、人にとって大切なこと。

でもそれらを「生きる価値」だと思い込んでしまうと、
それが無くなったとき、人は絶望し、当然死を思うでしょう。
だって「生きる価値」が無くなるんだから。
生きなければ、死ぬしかないんだから。

でも私は、伝わるものなら心底伝えたいと思いました。
「ただ生きているだけじゃだめなの?」って。
ただ生きていることが、生きる価値なんじゃないの?って。
生きる価値って、そんなに小難しいものだっけ?
生きる価値ってそんなふうに、
簡単に現れたり無くなったり移ろうものなの?
神様はこれ見よがしに大きなケーキをおいて、
これ食べて、幸せに、お願いだから幸せに生きてよって、
ただただそう願っていると思うのに。

そしてもう一歩進んで考えれてみれば、
人間が思考し、言葉をもったのは、
「生きる価値」を模索するためなんかではなく、
本来はもっと別のことのためである気がするのです。
その思いは第14号の「人であることの意味」につながり、
今後も考えていきたいテーマのひとつです。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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