見出し画像

人間が生きることを肯定したい・7「臨死体験」

『同じ世界の中で
それぞれの命を生きている 
人も鳥も木も
やがて土に帰る日が来れば
すべてがひとつだったことに
気付くのだ
今ある命は
人として生きた木かもしれないし
木として生きた人かもしれない』
神岡学・神岡衣絵作「森呼吸」より 
(流木で造った作品の写真と詩の本)


”真実”というものが存在するなら、
科学も宗教も実は同じことなのではないか・・・、
という漠然とした思いが私にはある。
実際、最先端の現場では、科学と宗教は限りなく近くなってきている。
それを如実に感じさせる一例が「臨死体験」の研究である。

臨死体験と聞くと、
オカルトのようなイメージを抱かれる人もあるかもしれないが、
これは実に長い年月をかけ、
科学者たちにより研究されてきたテーマだ。
「知の巨人」と名高いジャーナリスト立花隆も、
5年の歳月をかけ、臨死体験について上下巻の本を書いている。
客観的で綿密で読み応えのある本となっている。
そこから、臨死体験というものについての説明を引用したい。

『臨死体験というのは、事故や病気で死にかかった人が、
九死に一生を得て意識を回復したときに語る、
不思議なイメージ体験である。
三途の川を見た、
お花畑を歩いた、
魂が体から抜け出した、
死んだ人に出会ったといった、
一連の共通したパターンがある。
臨死体験とはいったい何なのか。
その意味づけと解釈をめぐってさまざまな議論がある。
一方には、これをもって死後の世界をかいま見た経験であるとし、
臨死体験は魂の存在とその死後存続を証明するものであるとする人がいる。
他方では、臨死体験というのは、生の最終段階において
弱りきった脳の中で起こる特異な幻覚にすぎないとする人がいる』
(立花隆著「臨死体験・上」より)

臨死体験が結局のところ、
魂の存在の証明なのか、脳の幻覚なのか、
どちらを意味するのかは、
立花隆や名高い科学者たちが、
何万人にインタビューをし、実験を繰り返して、
その高度な知能で様々な角度から検証しても、
いまだ結論が出ないくらい、奥の深い議論になってしまっている。

だが、私が今問題にしたいのは、その検証よりも、
臨死体験がその体験者にもたらす、「変化」のことである。
立花隆の説明の中に、
イメージ体験の例がいくつか出てくるが、
それらはほんの一部の代表例にすぎず、
実際の体験例は実に細かく、多岐にわたる。
(それでもすべてに無視のできない共通性はあるが)
その中に「至高体験」と分類されるものがある。
それは、死の間際、

『時空と空間を超越した世界に入った』
『全ての真理を把握した』
『全ての知識を獲得した』
『我々がなんのために生きているのかがわかった』

などと感じる体験のことである。
そして、臨死体験者の多くが、
生還後、信条や宗教感を劇的に変化させる。
全宇宙的な視野に立った、精神主義へと大きく傾くのだ。
体験者の声をひろってみる。

『宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ』
『人間は、物質レベルでは個別的存在だが、
精神レベルでは互いに結合されている。
人間のみならず、世界のすべてが精神的には一体である』
『すべての宗教の本質的な核心部分はみな同じだ』
『生きる意味は私の内面世界に在る』
『神は我々すべての中にいる。我々はみんな神の一部である』

体験前は物欲や名誉欲にとりつかれていた人、
利己主義のかたまりのようだった人が、
別人のように生まれ変わってしまう例が後をたたない。
無神論者であった人が神の偏在を確信する、
といった例もまた然りである。
そして、「自分というものや人間をもっと理解したい」
という精神的欲求が、物質的欲求にとってかわる。
あらゆる生命の内的一体性と、その神聖さへの気づきを深め、
必然的に地球の未来と生態系への関心を高めていく体験となるのである。

この「至高体験」者の劇的な人格の変化、
これが私にはとても興味深い。
引用した体験者の「声」は、英語からの翻訳のため、
堅苦しく、近寄りがたい表現にならざるを得ないが、
自分なりにかみ砕き、偏見を捨てて、よくよく考えて見ると、
みんな、「『リズム』を感じましたよ」と言っているのだと気づく。
そしてこの臨死体験から始まる考察は、
さらに驚くべきというか、
突拍子もないような仮説へと進んで行くのだが、
長くなるので、それは次の号に譲ることとする。


=====DEAR読者のみなさま=====


今回、臨死体験について書くのは、
正直ためらいがありました。
臨死体験者の語る言葉は、
インチキ宗教の教祖たちが語る言葉と非常に類似していて、
読者の皆様に大きな誤解や、
書き手である私への偏見を生まないかという心配があったからです。
ついこの間、トークイベントに出かけたのですが、
その際演者の方が、
現代の日本は、精神的なものについて語ることが、
かつてないほどタブーとされる時代だ、
というようなことを言っていました。
それはオウムの事件や何かがあって、
皆の胸に「だまされてはいけない」という不信があるからですよね。

でも私がよく思うのは、
例えばインチキ宗教の教祖が「愛は大切」と言ったとしますよね。
その教祖がどんなにインチキでうそつきで悪い奴だったとしても、
「愛は大切」という言葉自体に罪はないというか、
インチキな人が言ったからといって、
言った言葉ぜんぶがぜんぶ「嘘」かといえば、
そうではないよなぁ、ということです。
むしろ、インチキな人がしたり顔で、
口先ばかりで「真実」を語ったりするので、
珠玉のような一片の「真実」が沢山の嘘と詐欺の中に埋もれている、
そんな気がして、もどかしくてならないのです。

大切なのは、
かたくなになりすぎず、
偏りすぎず、盲信せず、
本当に自分の心に響いてくるもの、
本当に自分が大事だと思うものを、
いろんな人の話を聞いて、
いろんな世界を見て、
「自分の頭で」「自分の言葉で」
考え、感じ、そして受け入れることだと思います。

『魂について語ることを怖るるなかれ』
トークイベントの中で、出てきた言葉です。
私の結論は、まだまだ先です。
読者の皆様に偏見や誤解を持たれ、
見限られてしまうことのないように祈りつつ、
しかしそれを怖れずに、
書き進めていきたいと思っております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?