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人間が生きることを肯定したい・16「愛は私の胸の中」

『愛を探して あの船に乗った
愛が欲しくて あの汽車に揺られた
道に迷って あの風に聞いた
涙ながれて あの海に抱かれた
   
どこかに答えがあると信じてた
優しさを人に求めつづけた

探しまわっても見つかりはしないんだ
愛は私の胸の中
   
愛が欲しくて 嘘もついた
夢を求めて 罪も重ねた
道にたおれて あの川にすがった
涙ながれて あの雲に抱かれた
   
どこかに答えがあると信じてた
ぬくもりを人に求めすぎていた
  
ここまで流れてやっと気がついた
愛はあなたの胸の中

ここまで流れてやっと気がついた
愛は私の胸の中』

「愛は私の胸の中」
作詞/作曲 宮沢和史
歌 喜納昌吉 


高校生のとき、親友からもらったカセットに、
その歌は入っていた。
以来、ずっと今まで、私の一番好きな歌である。
当初は、特別に強い衝撃を受けたわけではなかった。
ただなんとなくいい歌だな、
落ち着く歌だな、
ずっと聞いていたいような、
気持ちが安らぐ歌だな、と思った。

でも「愛は私の胸の中」というフレーズが、
いつまでもいつまでも色あせず、
なぜか忘れられず、
捨てられない子供の頃の宝物のように、
決して私の中から出て行くことがなかった。
意識の底で、常に静かに光っていた。
誰かを好きになりすぎて辛いときや、
一人ぼっちのような気がするとき、
自然とこの歌を口ずさんでいた。

何年か後、
「空になるとき」という写真集を手に取った。
流木で人形を創り、
それを自然の中で撮影した写真集だ。
その中の、とあるページに、
私は今度こそ強い衝撃を受けた。
優しい表情の流木の人が、
森の中で、
自分の胸のあたりにある引出しを開けている。
胸の引出しの中には、
小さな赤い花がポツンとひとつ、入っている。
そして、隣りにはこんな詩がついている。


『忙しさからぬけだして
私は探しつづけた

木漏れ日の中で
それは見つかった

自分の中にあることを
今までどうして
気付かなかったのだろう』


同じだ。あの歌と。
あの歌と、同じことを言っている。
ふつふつとわきあがるような喜びと感動を覚えた。

人は当然、愛されたいと願う。
それは普通だと思う。
愛してくれる人を探す。
自分だけを、間違えなく確実に、そして永遠に変わらず、
愛してくれる人を探し求める。
見つかったといっては舞い上がり、
裏切られたといっては泣く。
その繰り返しだ。

だから、子供にとって両親、
殊に母親というのは大切な存在なのだと思う。
産まれた瞬間から、
いっとうはじめに、
まず愛してくれる人だから。
愛の味を、はじめに教えてくれる人だから。
逆に、無条件に惜しみない愛情を注いでくれるはずの母親から、
まったく愛されなかった子供は、
大きくなってからも心に深い傷を負っている場合が多い。
また、疎まれても、ましてや虐待されても、
子供が母親を愛すことをやめないのは、
そうしないと生きていかれないからだ。
愛されたいというのは本能だ。
この人に愛されないと生きてはいかれない。
そういう本能があるから、
子供は命がけで母親を愛している。
その分、途方もなく切実で健気なのだ。

だが、長らく私の中でひっかかっている疑問があった。
それは「愛されなければ価値はないのか」という疑問だった。
誰もその人の存在を知らず、
誰も心配する人がなければ、
ましてや愛してくれる人もいなければ、
その人は生きている価値がない?

他人の気持ち・・・
つまり「自分を愛してくれている」とか、
「この人には私が必要だ」とか、
他者との関連性に依存して自分の存在価値を認めていると、
その相手がいなくなったり、
その相手から裏切られた途端、
人は破滅しかねない。

それは違うだろう、と私は感じていた。
人とのつながりは、とても大事なものだけど、
そこには大きな喜びと安らぎがあるけれど、
それだけじゃないはずだ、と思った。
人の気持ちは不確かで、移ろいゆくものだからこそ。

昔、こんな話を聞いたことがある。

「誰も見ていない山の奥で、
誰にも知られずに木が一本倒れたら、
その木が倒れた事実は事実と言えるか?」

言える。
言えるに決まっている。
存在のひとつひとつ、
出来事のひとつひとつには、
それぞれ独自で意味がある。
そして、互いに影響しあっている。
何事も独自で意味があり、
また、独自では終らないのだ。

しかし、物理的なつながり・関連性のみを追求する人々にとっては、
木が倒れた事実は「無かったこと」にできる。
それが口惜しかった。
「無かったこと」にはならないと言いたい、
でもそれはどうしてだかを、
うまく説明できなかった。

そのとき、あの歌が胸で流れた。
ああそうか、と思った。

大丈夫なんだ。
もし誰からも愛されていなかったとしても、
その胸の中には、
自分もひっくるめ、
世界のすべてを愛せる力がある。

自分の胸の中に、
そういう愛があると知ったとき、
おそらく、愛することと愛されることは同義だ。

世の中すべてから愛されればどんなに幸せかと願うが、
世の中にあるすべての愛とまったく同じだけのものが、
すでに自分の胸の中にある。
産まれた瞬間から、すでに持っている。
だが、すっかり忘れているのだ。
持っていることを。

休みなく鼓動を打ち、
血脈となって体内を巡り、
細胞を分裂させ、
次世代のために精緻なDNAを描き、
その精神を動かすものはなんなのか。
そもそも「生きる」という大仕事をそつなくこなす、
その力はなんなのか。
その力こそ、
「愛」と呼ばれ、
「神」と呼ばれ、
太古から人々が感じてきた「リズム」ではないのか。

ただ、自分の胸の引出しを開けてみようと思いつくまでに、
たくさんの旅をしなくてはいけない。
簡単なことではない。
船に乗り、
汽車に揺られ、
風に聞き、
海に抱かれ、
嘘をつき、
罪を重ね、
川にすがり、
雲に抱かれ、
流れ流れて、
やっと気がつくのだ。
探しつづけたものは、自分の胸の中だと。
欲しいものは、産まれたときから、ずっと持っていたのだと。
他人の愛を頼りに、他人の気持ちを探し回っているうちは、
その旅は永遠に終わらない。

誰からも愛されなくたって、
恨み憎むまなくても大丈夫。
そこから歩き出して、
引出しを開ける旅に出ればいい。
誰からも認められなくたって、
絶望し投げ出さなくても大丈夫。
そこから抜け出して、
引出しを開ける旅に出ればいい。

誰も言ってくれなかったことを、
世界は口々にささやいている。
あなた自身が、「愛」そのものなのだと。
あなたは、この世界に産み落とされた幸せなのだと。
だから、生きなさい、生きなさい、どうか生きてください、と。


=====DEAR読者のみなさま=====


・・・とはいえ、私自身もまだその旅の途中です。
旅支度、くらいかもしれません。
胸の引出しも、取っ手を一生懸命探すのですが、
なかなか見つかりません。
好きになった人には好きになってほしいし、
フラれればわんわん泣きます。
けれども、「愛は私の胸の中」の歌を聴くと、
ふっと信じたい気持ちになるのです。
そういう歌を作ったり、
歌ったりしている人って、
本当にすごいなあ、と思います。

本文でも同じことを言いましたが、
私がこのメルマガを書き始めたきっかけは、

「愛してくれる人も、愛している人も、
生きがいも、喜びも、なんにもない人に、
それでも”生きていていいんだ”
”生きていて欲しい”と言いたい。
そう言えるだろうか。」

という、ひとつの自分への問いかけがありました。
いわば、生そのものの価値を確信したかった。

次回は、この話題をもう少し具体的に掘り下げつつ、
今までの号の話題をまとめ、
ひとつの区切りをつけたいと考えています。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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