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人間が生きることを肯定したい・8「限界の向こう側」

『でも、なぜだろう。
私は世界が変ることを漠然と夢見ている。
小魚の群れがびゅんっと方向を変えるみたいに、
ある瞬間に同時多発的に
くるんと世界が変ってしまうような、
そんなことが絶対にあると確信している』
「田口ランディのコラムマガジン」2001.3.12号より         


こんな「法則」の話を聞いたことがあるだろうか。
猿がたくさん生息する島があった。
猿たちの主食はイモだった。
それまでずっと、
猿たちは掘り出したイモをそのまま齧っていたのだが、
ある日、一匹の猿が、イモを海水に浸してから食べると、
泥が落ち、塩味がついておいしいということを発見した。
やがてその猿の親戚やグループの仲間も、
イモを海水で洗ってから食べるようになる。
何年か経つとその島で生まれた小猿は、
誰にも教わらなくても、
始めから海水で洗ってイモを食べるようになったという。
さらに不可思議なのは、
物理的につながりのない、
遠く離れた拠点の猿の生息地でも、
突然同じ頃、イモを海水で洗う習慣が伝播したというのである。

こういう例は割と有名で、別のエピソードも挙げられる。
一匹のラットが、ある行動パターンを学習したとする。
すると他のラットまでもが、
このパターンを以前より早く学習するという。
これは、ラット間の物理的接触によるものではない。
東京で、1,000匹のラットがあるパターンを学習する。
その前と後とで、
ニューヨークのラットが同じパターンを学習する速さを測ると、
なんと後の方が明らかに速くなるそうである。

人間の場合でも同じようなことが起きている。
何かの研究で、それまで何十年も解決できなかった問題が、
突然世界のあちこちで、ばたばたと同時に解明されたりする。
ふっとみんなが同じことを思いつくらしい。

「意識は空間的に横のつながりを持つのではないか」
そう考えるのが自然なように思える「法則」である。

ところで、前回の第7号では、
臨死体験における「至高体験」について書いた。
前回のその話と、先述の「法則」、
そのふたつが今回のテーマとしてつながってくる。

だが、そのふたつをつなげる前に、
「至高体験」ということについて、もう少し触れてみたい。
臨死体験における「至高体験」と非常に似た感覚を、
生死の淵に立たずとも、味わった人々がいる。
宇宙飛行士たちである。
1969年アポロ9号のパイロットとして宇宙へ飛び立った、
ラッセル・シュワイカートの体験を紹介したい。

ラッセルはスコットという同乗パイロットと宇宙遊泳を楽しんでいた。
だが、スコットのカメラが突然故障した。
5分間だけ待つようにと言い残して、
スコットはロケットの船内へ消えた。
ラッセルは宇宙空間に、ひとり、残された。
突然することのなくなったラッセルは、ゆっくり周りを見渡した。
ラッセルの真下には、真っ青な美しい地球が広がっていた。
信じられないほど美しかった。
そして、完全な静寂。
視界を遮るものも無く、無重力のため宇宙服の感触すら無く、
ラッセルは素っ裸でたったひとり、宇宙に浮いていると感じた。
そのとき、突然ラッセルの中に、こんな想いが湧きあがってきた。

『どうして私はここにいるのだろう。
 どうしてこんなことが起こっているんだ。
 私はいったい誰だ。
 そうだ、ここにいるのは私ではなく、
 ”我々”なんだ。
 これはまるで奇跡じゃないか。
 私は、いや、我々は、
 今まさに地球に育まれた命が、
 地球の子宮から生まれ出ようとする、
 その一瞬に立ち会っているんだ。』

それは確信だった。
考えたのではなく、一瞬で流れ込んできた。
ラッセルという存在が、
眼下に広がる地球のすべての生命と、
深くつながっているというだけでなく、
地球そのものと深くつながっているんだということが、
頭ではなく、心で理解できた。
これほど深い連帯感は、今まで一度も味わったことがなかった。

宇宙空間にひとり取り残されたり、
生死の淵に立たされたり、
もしくは長く滝に打たれたり、
何日も絶食して瞑想したり、
何か、肉体という限界を精神がぽんっと飛び越えたとき、
このラッセルの体験のような「運命の一瞬」が訪れるように思える。
あえて単純に言ってしまうとすれば、
私達の生命が、大きな宇宙の大きな生命の一部であり、
それが永遠に続いている、という感覚。
言いかえれば、
私達は、大きなリズムのうねりの一部なんだということ。
そのようなことを一瞬にして悟る体験。

例えば。
そのような「運命の一瞬」を体験して、
あるひとつの価値観に目覚めた人の数が、
ある一定のライン、「閾値」に達したら、
いったいどういうことが起きるのか。

ここで、先ほどの「法則」を思い出して欲しい。
価値観は伝播する。
意識が伝播する。
目に見えない横のつながりによって。
現代の物質主義よりの価値観が、
ある時期、唐突に、突然変異のように、
ひょいっと方向転換するということが、
私にはありえるように思えてならない。
そう、「小魚の群れがびゅんっと方向を変えるみたいに」。

友人にその考えを語ってみせたら、
「おお、それじゃあ、俺はなんにも頑張らなくても、
修行とかしなくても、
いつか突然、”新しい意識”に目覚めるのか?
ラッキーだな。お手軽だな。」
と言っていた。
私は思わずふふっと笑ってしまった。
だけど、そのとおりかもしれない。
「意識の変革」「突然変異」なんて言うと、
何か大変なことが起きるように錯覚してしまうが、そうではない。
人々の価値観というものは、時代の背景にそって、
ゆるやかにゆるやかに、常に変化しつづけているものだ。
もちろん、人はひとりひとり、個別の価値観を持っているが、
その個別の価値観をモザイクのように寄せ集め、
「全体」として眺めなおして見ると、
また大きなひとつのカタチ・色があるだろう。
例えば戦時中と今とでは、
人々の価値観は変革されていると言って良い。
もっと身近な例で言うと、
ひと昔まえまでは、
ゴミをきっちり分別していたような覚えがないが、
今ではどこへ行っても分別するのが普通だし、
私の世代より少し上の人々だと、
シャープペンシルを指の上でくるくるっと回したりしないが、
私より下の世代の人々はみんながみんな、
授業中にテスト中に、
当然のようにくるくるっと器用に回している。

では現代の価値観を寄せ集めて見ると、何が見えるのか。
現代はマテリアリズムが蔓延している時代ではないか。
精神的なものを語ることは、ある意味タブーとされる。
決して、テクノロジーを追いかけることを悪いと言っているのではない。
ラッセル・シュワイカートも、
「人間であるということは、テクノロジーと結婚したようなものだ」
と言っている。
人間は考える。
テクノロジーの進化は人間という種の持つ独特の個性であり、
自然なことであると。
だが、このまま物欲・私欲による価値観だけで、
テクノロジーを進化させつづけるならば、
何かがどこかで破綻するだろう。間違えなく。
人の心か。自然環境の破壊か。核戦争か。
自分たちの持てる力を、どのような価値観において、
今後進化させていくのか。
地球の未来は、そこにかかっているような気がする。

・・・と、ちょっと「地球の未来」なんていう方に話はそれたが、
私が興味があること、私が語りたいのは、
いつも「人の心」のことだ。
私の周りの人たちのことだ。
確かに、地球がいつまでも美しく存続してほしいのはやまやまだが、
その前にまず、
普通の日常を送る人々、
平凡に懸命に毎日を暮らす人々が、
優しい気持ちで生きていけること、
小さくても「幸せ」な気持ちを胸に生きていけること、
そのために私は考えている。
小さな「幸せ」の気持ち、
例えば晴れた日の昼下がり、
ちょうど良い温かさで、
特別な理由がなくても、
心が伸びやかに開放されるときの気分のような。

諦めではなく希望が、
不安ではなく確信が、
皆の胸に生まれますようにと。
そのための「価値観の変革」なのだ。
そういう人々の意識の波動はきっと、
結局は地球や宇宙というレベルにまで影響を及ぼして行くだろう。
すべてはつながっている。
すべてが別個のように見えて、
別個ではありえない。

では本当に、「意識の変革」という時期は訪れるのか。
手遅れになる前に、本当に訪れるのか。
私はそれについては、けっこう楽観的である。
なぜなら、私たちの目はついつい、
悲惨なニュース、不穏なニュースに向きがちだけれど、
そして衝撃と恐怖のあまり、不安に支配されるけれど、
この人間社会をつくりあげているのは、
善良で平凡で懸命で心優しい「大多数の人々」なのだから。

=====DEAR読者のみなさま=====

今回は、「変革がおこる」という可能性についてがテーマだったので、
肝心の「じゃあどのように変革するのか」
「そもそも”至高体験””運命の一瞬”において気づくことは”何”なのか」
「今、必要とされる”あるひとつの価値観”ってどういう価値観なのか」
ということには、実はあまり深く触れていません。
ラッセル・シュワイカートの体験を載せてはみましたが。

とてもとても一回で書ききれるテーマではないので、
じっくりといろいろな人の声を取り上げながら、
何回かにわたって、考察を進めていきたいと思っています。
結論を急ぎすぎて、「わかった気になる」ことが、
一番いけないことだと思います。

だって、自分が「大きなものの一部」であり、
「それは永遠につながっていく」なんていう感覚、
そうそう簡単に味わったり、気づけるものだと思えますか?!
平凡に暮らしていれば、気づくのは難しいことなのかもしれない。
けれども、
普通の人たちの、普通の生活の中での心の変革が、
実は一番大切なんだと、
そういう考えに私は大賛成なのです。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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