見出し画像

河合隼雄を学ぶ・11「これからの日本②」

(前号の続きです)

【物語のなかの男と女・夫と妻】

その人の人生がすなわち「物語」である。

河合隼雄は心理療法家として、「物語」に関心をもたざるを得ないという。例えば夫は夫の、妻は妻の「物語」を生きていて、同じ家で夫婦として暮らしていても、「物語」が違うから、喧嘩になるし、わかりあえない。二人が共有できる「物語」を新たに紡がない限り。

また、河合隼雄のところに来たクライエントの女の子が「私のお父さんもお母さんも、私に全然興味をもってくれない。私の頭を撫でてくれたこともない」と訴える。しかし、両親のほうは「娘にはできる限りのことをしてきた」と言う。やはりこれも、「物語」の違いだろう。

事実はどうなのかわからない。ただ、少なくとも娘にとって「両親は私の髪さえ触らなかった」という「物語」が、今の気持ちを表現するのにぴったりくる、ということなのだ。

さて、日本の物語の中で、基本的に大事なのは「消え去る女性」というパターンだと河合隼雄はいう。「かぐや姫」「鶴女房」「うぐいすの里」「天女の羽衣」「余呉の湖悲し」「三井の晩鐘」などは代表的であろう。

鶴の姿の女房が最後に空へと飛び去ってしまう。男は何もできず、ただ悲しそうに立っている。

このシーンに、日本人は「美」や「もののあわれ」を感じて、これで物語はおしまいだ、と確信する。が、西洋人に話すと「それで?」と聞かれるという。西洋は、倫理的、または論理的な解決を望む。しかし、日本人にとって大切なのは、最後がいかに美しいか、ということである

美的完成は、悲しみという大きな代償を払わないと完成しない。好きな女性と結ばれたいという人間的な望みを捨て去るという大きな犠牲のうえに、美しさが完成するのである。

これは、日本人特有の美的感覚ではないか、と河合隼雄は考えている。

折口信夫の考えであるが、人間の中には魂があって、これを「内在魂」という。一方、山とか川には「外在魂」があって、それらが身体の中に入って衝突すると、それが衝動になって感動になるのではないか。美しい風景が目の中に入って、内在魂と衝突すると感動になるのではないか。魂の中には「たま」や「かみ」と呼ばれるピュアな霊魂がある一方、「もの」というのは、三輪山のご神体である大物主に代表されるように、何かどろどろしたような、地面の中にうずくまっているような霊魂であって、それが出てくると、「もののけ」や「もののふ」といわれるものになる。その延長線上で「物語」という言葉を当てはめると、日常的な体験ではない、とんでもない非日常の世界を語るのは、古代より、女性の役割であるように思う。

「もの」というのは面白い言葉で、西洋的な物質という意味ではなく、心も物も入った言葉である。「ものがなしい」とか「ものさびしい」とはいうが、「ものうれしい」とはいわない。悲しいとか、寂しいというのは、日本の心の中でも中心的な位置にある。

【湖の物語】

日本の昔からの伝統は、どうしても「いかに死ぬか」という方に焦点があった。だから、そちらから見ると、人生というのはやっぱり悲しいもので、人生の一番のベースというものは、「悲しみ」「哀しみ」という感情である。「悲しみ」がベースにあって、その中でも楽しく生きる、喜ばしい生き方がある。

ちなみに、この「どのような感情も、その裏には悲しみがある」と河合隼雄がいった、という話は、臨床心理士の先生から聞いたことがあった。とても印象的で、その言葉がいつも私の心の片隅に住み着くことになった。誰かがすごく怒っているとき、その裏には、わかってもらえないという悲しみがある。楽しいという気持ちのとき、その裏には、この楽しさもいつかは終わるという悲しみがある。不安という感情が生まれるとき、その裏には、先行きや足元が見えないという悲しみがある。そんなふうに考えるとき、私は人というものが、なおいっそう愛しいものに思えたのである。

ところで、鶴女房のような異類婚の話は、西洋にもある。ただ、決定的に違うのは、西洋では、蛙と結婚しても、野獣と結婚しても、その正体は人間で、人間が異類に姿を変えられているだけなのである。それが結婚することで人間に戻る、というのが西洋の物語。

一方、日本では、正体が天女だったり、鶴だったり、龍だったりするのが、人間に姿を変えて結婚をする。そして最後には正体が分かってしまって、別れてしまう。去ってしまう。

これが、パプアニューギニアやイヌイットの物語だと、異類は異類のまま、人間と結婚する。人間と蟹が結婚する話では「どうも目玉が飛び出していて気になる」などと思いつつ、特に悲劇は起こらない。

この物語の違いは、「人間と自然の関係の違い」なのではないかと河合隼雄は考察している。

パプアニューギニアなどでは、人間と自然が完全に同等に生きている。「別に結婚したっていいじゃないか」というくらいに、一緒に生きている。

西洋は、「人間と自然は絶対に違うものなんだ」という信仰がある。

日本はその中間で、なんとなく異類が人間になる、魔法も手続きもなく、なんとなく、ただ、人間になる。境目がない。そういう意味で、人間と自然はとても近いのだけれど、はっきり正体が分かってしまうと、一緒にはいられない。

物語の違いに、文化や感性の違いがこんなふうに表れるのは、とても面白いことだと思う。そして私自身、やはり日本の物語を美しいと感じるし、一番心にぴったりくる感じがするのである。

「物語」というのは、目の前の事象に、拡がりと力を与えると思う。例えば、目の前にひとつのコップがあったとして、「コップだ」とただ思うのと、「このコップは、どういう物語のすえに、今、私の目の前にあるのだろう」と考えるのとでは、コップに対する思い入れが変わってくるだろう。

相手の「物語」を知る。

そのことが、「争いのない世界」のヒントなのではないか。私はそんな気がしている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?