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今、この瞬間/可哀想可愛い

私は多分、刹那主義とかいうやつなのかもしれない。
たまにそんなことを考える。
悪い言い方をすれば「後先を考えない」である。

今この瞬間、私が生きている今が大事なのであって、その瞬間の過去も未来も割とどうでもいいのだ。
何かを決断するときにおいて、私は今自分が望んでいることを実行したいと思い、そしてそれに従う。そこに過去もなければ未来もない。

その瞬間の欲望というものに従っている私は、欲望の奴隷である。
だから頻繁にお金に困るし、今月使いすぎたと思うことがほとんどだ。
(基本的にその多くは課金と本の購入と酒代である。駄目人間と笑いたければ笑ってくれて構わない)

でも私は欲望が満たされないと全てにおいて自分が無気力になることを知っている。もはや病気である。
事実として精神障害を患っているのだから、まぁそこに差はないだろう。


少し話題を変えよう。


少しだけ、取り上げられたりしている人のnoteを見てみた。
なんだろう。陽の気を纏っている文章がめちゃくちゃ多い。
エクスクラメーションマークが文の終わりにあったり、本来なら読点がつくだろうところで改行したり。個性がある。

私は正直なことを申し上げると現代の作家の本にあまり触れた記憶がない。
小中高までは一応図書室に通い詰めていたような人間なので、割と触れてきたのではと思うのだが、なにしろ読んできたであろう本など何も覚えていないのである。
唯一覚えている単語は「役小角」だ。
確か彼に関する書籍を高校の時に読んだ記憶はある。あぁ、あと封神演技。

じゃあ何を色濃く覚えているのかというと、プロフィールにもある通り近代文学である。
私は高校受験のときに川端康成の「ざくろ」に出会って以来、川端康成という作家を敬愛している。
しかし、敬愛しているからといって彼の人の著書を全て所有しているわけではない。『山の音』も『みずうみ』も持っていない。
何故なら、私は『掌の小説』と『眠れる美女』の二冊で割と満足してしまっているからである。『古都』や『雪国』、『伊豆の踊子』も所有しているし読んでもいるのに、私はその二冊だけでいいと思っているのだ。
理由についてはいずれ述べたい。

川端以外にも坂口安吾、太宰治、芥川龍之介、梶井基次郎、谷崎潤一郎辺りを好んで読むかもしれない。いや、他にも三島や横光、夢野などの書籍も所有してはいるのだが、なにしろまだ読めずに積読タワーの中の一冊と成り果ててしまっている。

所有しているのに読まれない本。なんだかその存在は少し哀れだ。
だがそれと同時に愛しく思う。
そこにあるだけで愛でる対象となっているのだから、きっと私は哀れみを感じる瞬間や存在が好きなのだろう。

それはいわゆる、可哀想可愛いと同じ感覚なのかもしれない。

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