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今週の英会話レッスン振り返り|テーマは“change”

昨年11月から、私は『ジブンのあり方English』という、すごく面白いアプローチの英会話レッスンを受けている。

思えば透明水彩とか、色々習っているんだけど、結構続いているなぁと。
自分にfitするものを選び、日々を構成できるのが、自分の喜びポイントなのだと思う。先日、月に一度透明水彩を習っている先生から『都合で、次回のレッスンは3月に開催します』と(ごめんねのニュアンスも多分に)ご連絡いただいたけど、ちょうど復習できるし、いや復習しないと身についていかないほど重要な事を、毎回たっぷりと惜しみなく教えてもらっているから、かえってこちらがありがたいです!と心から思った。

そう、自分の考えていることを話したり、こうして文章に書くと「研究者肌だね」って、本当によく言われるんだけど…
たくさん得るとか持つことが重要なのではない、自分にfitするものを何でも、収めるところに収めることで私は満たされる。

ジブンのあり方Englishは2週間に一度。
喋りたーい、喋れなーいと頭を働かせ、汗をたくさんかいて(寒い季節なのに)、復習として自分の中に何が起こったのかを観察し終わると、ちょうど次のレッスンがやってくる。

今週のテーマはchange

①What changed you before you started this lesson comparing to now?
―このレッスンを始める前と、今と比べて、変化がありましたか?
②What don't you want to change yourself?
―自分自身で「変えたくないな」と思うところは何ですか?

①変わったよ…変わったとも!
レッスンビフォーアフターはこちら。

「I」をすごく意識するようになったし、Netflixが何倍も面白くなったし(今何て言ったんだろう?って字幕を英語に変えて確認したり、この流れでこういうフレーズで話すんだー!と発見したり)、夫に、発見―英語を通じて見つけた、自分についての新しい発見―を報告できたり。

そして、彼も持っていたりするんだな!
英語を勉強できる、ちょうどいい教材としての、本。
買わなくても、家を探せば何かしら出てくるもんだ。
今はできるだけ毎日、その本を自主勉強することで生活に自分だけのルーチンが生まれ、いい感じである。

このレッスンを受けるまでは、I can't speak English.って言っていたと思う。だけど会話を続けられるし、相手が何を喋ろうとしているかを大体理解できるし(彩美先生の流ちょうな英語は未だに、『あ、褒められてる』とふんわりとしか理解できない…)、今、私、ネイティブの2歳くらいには喋れてると思う。そう思えるようになったのも、大きな変化の1つ。


自分で変えたくないと思うところ

②自分自身で「変えたくないな」と思うところ…my sensibility(感性)。
自分の感じたこと、考えていることが自分自身に正直であるなら、私はそれを信じられるし、価値がある、と思うようになったから。

どうしてそう思うようになったか、何かきっかけになるような出来事があったの?と聞かれて…自分の心に正直な言葉を探したところ、

もうええわ

という言葉が出てきた。もはや英語ですらない。Osakan(大阪語)である。
何か特別な出来事が起こったわけじゃなくて、ずっとneat(きちんとして)で、proper(ちゃんと)で、normal(常識的で)であろう、と頑張ってきたけど、臨界点に達したというか、ホント、もうええわ、と思ったんだ。

私は最近、戸外を散歩して、スケッチをする時間を取るようにしている。
仕事には直接結びつかないけど、「心をひらいて、感じる」「頭を空っぽにして、よく見て描く」って、今の自分に必要な鍛錬だと思っている。
やっぱり絵描きには必要で、仕事に結びつくことだ。
だけど、今まではそれを、仕事中なんです、と言い切ることになんか、ためらいがあって…

顔見知りに会う。『子どもはどうしたの?』って聞かれたら、すみません!子どもは預けてます!って真っ先に謝る気持ちがわいていたし。心を遊ばせて、良い表現を生み出すことに、どうして罪悪感がともなうのだろう。
遊んでいるようにみられるのではないか、と怯えているようだ。

(あれ、今ふっと思ったんだけど、子どもが小さいうちは預けて働こうとしたら「かわいそう」って言われて、子どもが小学校に行くようになったら「そろそろその時間で有意義なことをしたら」って言われるのって、女も手に職を!と言っていたのに妙齢になるとアンタそろそろ結婚しないの、と言い出すお母さん像並みに一貫性がない。いちいち気にしていたら、振り回されるだけのやつだ。預けるのも働き出すのも、まだまだ大変で、世の中の女性は一生懸命「つないで」いるんだから)

私は遊びの先に、素晴らしい表現を生み出して、この世界を豊かにします。
ドキドキしながら、これが自分に定着するまで、毎日唱えることに決めた。


感受性が鋭くて

Sensibility(感性)。ずっと、このままじゃだめなんだと思っていた。
どうしてそう思うようになったんだろう。最近この本を読んで、その謎が解けたような気がする。

この物語の主人公、まいの母親が父親にこう話すシーンがある。

あの子はとにかく……。何ていうのかしら、感受性が強すぎるのね。どうせ、何かで傷ついたには違いないんだろうけど。昔から扱いにくい子だったわ。生きていきにくいタイプの子よね。

「扱いにくい子」「生きていきにくいタイプの子」と言われて、まいは『ママはもうわたしに誇りが持てなくなったのだ』とつらく、悲しく思い、『ごめんね、ママ』と謝りたい気持ちになるのだ。

分かるなぁ…。
感受性の鋭さは、強みでもあり、同時に弱みにもなる。私の両親も、私の感受性が何か良い絵を描くとか、プラス面に作用するなら安心できただろうけど、同時に心配もしてたと思う。
こんなこの子をむき出しのまま、社会に送り出していいものか?と。

色々なものを素直に、そして人の何倍も大きく受け止める娘。ちょっとした言葉にも敏感に反応して、傷ついたり、泣き叫んだり、感情が乱高下するなんて。出会う人が悪かったら、利用されたり、騙されるかもしれない。変な宗教に勧誘されて、素直に信じちゃったら…

たよりなくむきだしの存在を守るために、周りの大人が色々教えてくれた価値観で、私の半分は出来ている。どうもありがとう。

だけど幼い時分から、私にはちゃんと分かっていたような気もする。
どれだけ自分が素直で、何でも鋭い感受性で受け止めていく人間だとして、
居心地の悪さ、違和感。
自分に敬意を払ってない人。
自分には必要としてないものかどうか。

だから直感は割と正しくて、それを信じても大丈夫。『違う』と感じたら、いつでも離れて、自分の身を守ればいいのだと思う。
判断を誤るのは、安易で安直で、見た目だけ安泰な条件で選んだとき。楽して稼げるとか。そしてそれを、やめよう、離れよう、としたとき、それを『続けるのはいいことだから』とかね、一見常識的なロジックでねじ伏せるときなんだよ。
『友だちとは仲良くしよう』とか、『誰にでも優しく、公平に、公正に』とか。
大事なことは、『いきる』ことなんだ。
自分を殺さなくて、いい。と、今、言い切らなくては。

いずれ、自分の職歴を掘り下げる時に出てくることなんだけど…
月収ナン万円とか、数字だけで選んだら、暗に明に『払ってやってる』と恩を着せてきて、嫌だった。誰とでも、対等に、価値でもってコミュニケーションを構築していかないとダメなんだと思う。

野本さんのこの記事、たびたび読み返している。
日本人は、って大雑把にくくってしまうのは乱暴だけど、一貫性至上主義というか、得体のしれない何かで私たちはくるまれ、行動を制限されているような気がする。でもそこから抜け出すことも怖い。
ハッピーかどうか、で変化をよしとするマレーシア人のことを何度も読み、私は大きな決断をした。決断をして、今自分はとてもハッピーだ。

親は子どもより先に寿命が尽きるだろうし、物理的に支援をすることには限りがあるから、色々良かれと思って彼らの価値観を提示するのかも知れない。

だけど、一緒に『どうしたら、望む方向に進んでいけるかな』って考えるだけで、あの時の私は救われたとも思う。今の自分は全部自力でイラストレーターとしてやっていくには…って考えて、探して、行動してってやってきたけど、時間を戻すことができたなら、高校生くらいに、両親と、そういう話をしていたかったと思う。
自立と依存。難しいテーマだ。

以上、今週の英会話レッスンを受けて、自分が考えたこと。

ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!