価値のすり合わせを勝ち負けにしたくないのに
私は家事シェア研究家、三木智有さんの発信や活動をフォローしている。
彼のニュースレターから、『家事シェアの悩み、不満、課題を教えて下さい!』というアンケートが来たのでよっしゃ!と答えてみたら、自分でも引くくらいドバドバと(笑)恨みつらみが出てきたので、ここで整理しておこう、というのが本日のハナシ。
恨みつらみみたいなネガティブなことでも、ポジティブなことでも。
私が能弁になるところに、私の心はあるっぽい。
本題に入る前に…
最近、『私の言いたいことや、やりたい行動を遮る、何かがある』『その正体は、何だろう?』と考えるようになっている。
もともと、自分の本音が言えない、そもそも本音が分からないと感じることが多くて。
どうしてか、心とちぐはぐな行動を取ってしまうことも多くて。
なぜだろう?
今のところ、仮説は2つ。
ひとつは怖れ、不安。
自分の奥深いところに巣食うもの。
(これについては、精神科医・水島広子さんのご著者と出会えたのがとても大きい。
別の記事で、書きたいことでもある)
もうひとつは、自分を取り巻いている構造。
『バリアモデル』という考え方に出会って、目からウロコだったんだが。
バリアモデルは、瀧波ユカリさんの『わたしたちは無痛恋愛がしたい』第19話に分かりやすく説明されている。
今週は無料公開中なのでぜひ!
『役割のバリア』…女性・母親として期待されていること(女の子なんだから。もうお母さんなんだから)に口をつぐみ、振る舞いを制御される経験は、誰にでもあるのではないかしら。
私は更にそこに、両親や、今までの対人関係での経験から、幾層ものバリアを持ってるんだろうな、と感じている。
重ねて良いのは、ミルフィーユくらいなもんなのに…
.
さあ、本題。
三木さんは以前、『家事は結果にコミットしよう』という記事を書かれていた。
彼のnoteやメルマガ、webマガジンはかゆいところに手が届くような視点で、わーいい、もっと言ったって、と思わせてくれる。
私が論じたいのは、
その『結果』を決める基準は、どこにあるのかな。
家事に求める『結果』を、どうやって家族ですり合わせていったらいいのかな。
ということなんである。
.
長くなるのだが、例を挙げてみたい。
お題『洗濯物を干すという家事に求められる結果』
私の夫は服をハンガーに干す際、「ひっかけた」というのがピッタリな干し方をする。
特にTシャツ、カットソーなどの上に着るものだと、肩に縫い目があって、私はそこの線にハンガーを合わせて干して欲しいのだが、彼が干すと本当、「ひっかけた」干し方なので、最悪、理想の干し方から90°回転している。
そうすると何が起きるかと言うと、胸や背中の真ん中にハンガーの尖った部分が来て、それが突き出た形で乾いてしまうということ。
そしてそれはたたむ際にも完全には元に戻らず、要はカタチ崩れしてしまうということ。
問題はここからである。
私が何度も「服は、肩の縫い目とハンガーの線を揃えて干して欲しい」と訴えても、夫は「自分は気にしないから」と返してくる。
私が「それでは服がカタチ崩れをしてしまうんだ、畳むのも大変になってしまうし、次に着るとき気持ちよく着られないんだ、そうやって服の寿命を縮めたくないんだ」と言っても、彼には今いちピンと来ていないみたい。
なぜならば、私の観察したところ、彼は形が崩れれば、躊躇なく次の新しい服を買えるマインドのようだから。
(この点、彼には彼の言い分があることは重々承知の上さ。だけど私に被害が出ているのに、そうやってお互いの公平のもとに議論を進めようとするとね、私は何も言えなくなっちゃうのよ)
納得がいかない。
新婚当初、彼は私に言った。
『ワイシャツは1分脱水で取り出して干してほしい。シワがつかないように』
私もそれがワイシャツの洗濯結果にコミットする(=仕事の納品基準に達する)ことだと思ったので、了承し、以来、それを守っている。
そうすると、他の物は1分脱水ではびしょびしょなので、洗濯槽からワイシャツを取り出してから、追加で脱水をかけ直す、という手間を踏んでいる。
正直、手間だ。
洗濯物にワイシャツの無い日と比べるたびに、思う。
だけど、それが、この場合の『結果にコミットする』だから。
私は淡々と行うようにしている。
それなのに。
私が彼に対して、ハンガーへの干し方について「結果にコミットしていないよ」と伝えたくても、「自分は気にしないから」と返されるのでは、結局、彼は自分にとって良いか悪いかという基準でしか家事を捉えていない、すなわち自分の中にある価値基準でジャッジしているだけなんだな、と思う。
そして、私が何度も何度も言って、最終的に直してもらったとしよう(今は完全に肩の線とハンガーを揃えて干せるようになった)。
それが、結果にコミットしたわけではなく、
『何か口うるさいけど、これ以上うるさいのは嫌だから、受け入れてやるか』
と思われた可能性、なきにしもあらずなんだよな。
というわけで、私は夫に以下の本を渡し、話し合いをしようじゃないか、と提案をしたのだった。
あなたに私が話すことに耳を傾ける心があるのなら、
お互いの言い分の先に『私たちの』基準を作る気があるのなら、
私はいつだって、話し合いの席に着く準備はできている。
何気ない日常、ささやかな幸せを大切に、小さく楽しく生きていきたいと願っていても、大切な前提ってあると思うんだな。
家事で目指したい『結果』を、どうやって家族ですり合わせていく?
ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!