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世代を超えていく着物と康成さんをたどる遺伝子

3年ぶりくらいに、母と百貨店に出かけた。

出かけた目的は、娘の七五三の着物を初着(うぶぎ)戻しすること。
私が生まれた時に祖母が仕立ててくれた着物を、長女と次女が初宮参りと7歳の2回ずつ着てくれて、もう十分だと思っていた。悉皆屋さんに見てもらうと、これは状態もよいし3代着てください、とのこと。

20年後にひ孫かしら、と母が笑う。

初着戻しは、着物の形になっているものを、初宮参りの赤ちゃんの初着になるような形に変えることをいう。あまり擦りすぎず、けれども経年の汚れもできるだけ落とすような特殊な洗い方をした後、丸く縫われていた袖を四角くして、紐の位置を変える。

もっていった着物の柄は絵羽といって、縫い目で絵柄が繋がっていて、絵を描いてから反物を解いて、洗いあげて、また着物の形に縫う、という手間がかかったものらしい。気づいていなかったけれど、裏地にも模様があった。

悉皆屋さんの丁寧な説明を聞きながら、職人さんの技術の素晴らしさと仕立ててくれた祖母に想いを巡らせる。

私は仕事でイベントの多い11月は忙しく、七五三はいつも神社の予約もぎりぎりで、最後となった次女7歳のお参りは12月にずれ込んだ。当日写真店に行く余裕もないことはもちろん、着物の準備も片付けも完全に母任せになってしまっていた。

母も昔から仕事をしていたから、専業主婦の祖母ほど着物に詳しくはなく、初着戻しに必要な共布のひもを忘れてしまった。

自宅にいた兄に付属品の写真を送ってもらい、ひもが見つかったので、後日改めて悉皆屋さんを訪ねることとする。

母が悉皆屋さんに「この人、超絶忙しいからいつ来られるかわからないのよ。」という。母はいつも第三者にそう説明するのだけど、少し誇らしげな感じにも聞こえる。

ひもぐらい私の代わりに持って行って欲しいけれど、母は歩くのが嫌いなので車付きの私に同伴して欲しがる。


コロナになって、家族と会えない、という困難が世界中を襲った。
実家から徒歩10分の距離に住んでいた私たちにも漏れなくその状況は訪れ、それまで毎日顔を合わせていたのに、2ヶ月ほどは距離を取った。

在宅勤務が可能になっても、共働きで仕事をする上で実家の助けがなければ厳しいので、2ヶ月して学校が再開した後は、子供たちは実家に帰宅することにしたが、食卓は子等と両親とで分けられていた。時々出張に行く私は警戒されて、実家で食事をとることも嫌がられた。

自宅で仕事をする兄の、過剰なまでの警戒心が腹立たしくもあったけれど、高齢の両親にはまだまだ元気で、子供たちに教えてほしいことが多くあったので、差別的待遇も飲み込んだ。

あまり実家の中に入らず、玄関で立ち話程度で過ごした3年間。親の顔を見られるだけ自分は幸せだと思うようにしていた。コロナ禍の中の十分すぎる幸せ。


悉皆屋さんを出た後、百貨店に出かけたら恒例の早めのランチに向かった。

3年ほど経って視力が随分と衰えた母は、以前はちゃっちゃっと素早すぎた歩速も程よくなった。時折暗いところや段差で私の腕を握る。

親や祖父母が偉大だと、いい大人なってもなかなか超えられないのよ、と家系に悩む登場人物が出てくる海外のテレビシリーズになぞらえて我が家を語ると、あなたは十分頑張ってて、もう超えてると思うよ、と珍しくほめられた。


平日の百貨店とはいえ、コロナの明けつつあることを喜んでか、レストラン街の人混みは段々とましてゆく。

目が悪くて人の顔など見えないのに、後ろ姿を見て、
「あれ、お父さんじゃない?」という母。
車に乗るのを嫌がって1人で電車に乗って出かけた父だった。最近我が家でブームの「守護霊」が見つけてくれたのかな、と笑う。

父はグルメが生きがいで、1人で梅田に出掛けてはお気に入りのレストランを見つけてくる。今日訪れた阪急百貨店にもいくつかお気に入りがあって、銀座アスターか、うなぎやな、という。

別の日に父に、私の知り合いのシェフがやっている美味しいお店に行こう、と誘ったら、車に乗るのが嫌だからお母さんと行って、と答えた。母に聞くと、私がお世話になっている人に気を遣いながらご飯を食べたくないらしい。わからなくもないけど。


父と合流した後、母はなぜか私の方を向いて「うなぎは嫌」と訴えるので、銀座アスターで中華になった。

娘たちも兄もいない、3人での外食なんて私の留学先に父母が来た20年振りかもしれない。子供たちのこと、最近の仕事のことなどを話した。

いつもは立ち話で時間がないから、仕事で騙されていないか、忙しすぎて身体を壊さないか、子供たちの面倒をちゃんと見られてるか、と心配を含んだ小言ばかりでうんざりしてしまっていたけれど、いつになくゆっくりと話して、褒めてくれた気がする。

最近仕事で素晴らしい方々に出会えて、ついていけなくて胸が苦しくなる時もあるけど、そういう人とのお話に合わせられる教育をつけてくれたこと、感謝してます、と笑いながら伝える。

とか話しながらも、昔パリの中華料理でよく食べたデザートのarbouseがライチだと言い張る母に、携帯で調べた写真を見せて説明する。ヤマモモのシロップ漬けだよ。

ile flottanteを食べられるところがないから、夫の焼いてくれるプリンを温かいまま食べてるんだよ、とか。


父は仕事柄、時間の調整がつきやすく、私の乳母車を押しながら随分と散歩もしてくれたそうだし、行事や参観に夫婦揃って来てくれたり、20歳を過ぎるまで車で送迎してくれたり、と一緒に多くの時間は過ごしたのだろうけど、とにかく大半は機嫌が悪かった。

それでも私は家族の中で1番扱いが良かったらしく、父にお願い事があるときは私が大使にさせられた。それが今は孫たちになった。

長女が幼いとき、食卓で機嫌を損ねてスプーンを投げた。父の厳しさにいつも怯えていた私は、さすがに父の手が出るはずだと思った。

しかし父は「よう、飛んだな〜」と笑った。

扱いが違い過ぎる。兄と私は目配せをして、酷かった父を思い出しながら苦笑いをした。


今仕事で読んでいる本の著者は、父より5歳年下の大御所で、昔の暮らしを詳細に描いていてとてもほっこりするから、最後にお父さんも書いてよ、と頼んでみた。

父は「もう売れるための本を書くのは飽き飽きだ」と言ったけれど、父の本が売れたことはあるのだろうか。いつもこだわりの綺麗な装丁で、高くて、飾って眺めるのは好きだったけれど、うち1冊のまだ10ページも読めていない。

いつか読まなくてはいけないのだろうけど、まだ自分が生きていくのに必死な私は、堅苦しい本しか書かなかった父に代わって、とりあえず柔らかく、なんでもない日々のことを書きながら、読むことを先延ばしにしている。


遠縁に当たる川端康成さんが、母の曽祖母(つまり私の高祖母)を美しいと書いた本があると、親戚の集まりの度に話題になっていたけれど、それがどの本なのか誰もわからない、と聞いていた。図書館で短編集なども探してみても、そう言った文章は見つからないままだった。

なんのご縁か、長女が川端家の旧跡近くの学校に通うことになり、遠足で訪れたという。それをきっかけに、なんとなくネットで康成さんのことを検索した。すると家系図まで出てきて、川端康成さんの伯母が田中ソノといって、どうやら母の高祖母らしい。

そして、「父の名」という短編に、田中ソノが死ぬ前の病床で康成さんを父の栄吉っつぁんと見間違える、というくだりがあることがわかった。康成さんは、幼い頃に父母を亡くして、その記憶がほとんどなかったから、父が自分の中に蘇ったことに思うところがあったらしい。

そして、ソノは亡くなり、大阪から娘姉妹がやって来る。

「伯母はもう柩(ひつぎ)に入っていた。そして夜半近く、この伯母の娘たち二人が大阪から着く。もう60過ぎの老女なのだが、特に上の娘は若い時から美人として人目を惹いていたひとだった。その名残か、立ち居にあざやかなところがあり、仏前にしゃんと坐ると、このひとの娘も器量望みでもらわれて行ったことを思い出す。
 伯母からこの姉娘へ、姉娘から小町娘へと、3代の女が母に似て、母より美しくなりまさってきた事実を、康成は考える。」
(「父の名」より)

ソノから、その娘のフジ、さらにその娘のシナのことが書いてある。フジは私の高祖母でシナが曽祖母にあたる。

老いても白く美しかったフジさんは曾孫である私の母に、「順ちゃんは本を読むのが好きやったら、川端康成さんて知ってるか?おばあちゃんのいとこなんやで。」と優しく話したらしい。

フジさんにたどるだけでも2の4乗で16分の1。ソノさんに至ってはさらに2をかけて32分の1しか遺伝子を頂いていないのだろうけど、なんだか嬉しい。

いいことだけ、適当にいただく。
そして、少なくとも、親戚たちの噂話に根拠を与えるという仕事を果たした。

我が家には女紋という母系の家紋があり、母に初めて仕立ててもらった着物には、フジさんと同じ紋を付けてもらったことを想う。

家系が呪いになったり重荷になったり縛りになったり、でもキラキラすることもある。


最近、尊敬する上司が、いいことも悪いことも守護霊が見ていると叱咤激励してくるので、理系の私はありがたいお言葉に涙しながらも、敬意とサイエンスのどちらを勝たせるか悩んでいる。

いいことだけいただくとするならば、この私は1人じゃないということ。色んな人と歴史が私で交差していき、娘やその新しい家族へとつながっていくのだろう。

折に触れて孤独感に浸りがちな私は、そのことを忘れないでいようと思う。

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