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自分の名前が呼ばれたような気がした | 子どもの範疇 第15話(最終回)

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「こんなことして、ひどいんじゃないですか」

 青木が振り向いた拍子に取り落とした『アルマジロ』を南さんは拾い上げ、しわになった紙を丁寧に伸ばしながら言った。

「ここで何してるんですか。実習が終わったのに小学校の近くをうろうろして、変じゃないですか」

 必要以上にはきはきとした南さんのしゃべりかたに不機嫌があらわれていた。これまでに一度も見たことがないような反抗的な態度だった。翠子の体は緊張でこわばったが、青木は怒り出すわけでもなく、ただ目をしばたかせただけだった。

「……あすみが放っておけなくて、相談に乗りにきた。あすみもそのつもりで来てくれたんだろう」

「別に何か約束したつもりはないし、青木先生……青木さんに相談することはもうないです。それを言いに来ただけです」

 「青木さん」という呼ばれ方に青木は少し傷ついたような顔をした。

「家のこととか話してくれて、それっきりになってただろ」

「それなら、友達に話したらもうよくなりました」

「どうしちゃったんだ。あすみは子どもじゃないんだから、そんなガキとつきあってたってしょうがないだろ」

 青木の暗い目が翠子に向けられた。その奥にあるものを見て、青木が南さんのことを子どもではないと本当に信じているのがわかった。

「私は子どもですけど。青木さんにはそういう話をしたことがないけど、友達とマンガを読んだり描いたりするのが好きなんです。そういう子どもだから、もう親とか学校に話そうと思うんです。青木さんがこうして学校までやってきて、なんだか怖いって」

「怖いなんて、そんな。大体、こうして交流があったっておかしいことないだろう。俺は実習生だったし、君は一時は教え子だったんだから」

「おかしいかおかしくないかは、一度ほかの大人に話してみないとわかりません」

 青木は南さんの言葉にうろたえていた。さっきは翠子に対してあれほど高圧的だったのに、すっかりうちひしがれていた。この人は南さんの前だと自分自身を同い年の少年のように考えている。翠子は目をそむけたくなった。

 ちりん、とベルの音がした。自転車に乗った年配の男性が通りがかりに、道の端によけた三人の姿を不思議そうに眺めた。青木はたちまち教師らしさを身にまとい、こんにちは、と明朗に言った。南さんは黙ったまま、その姿に射るような視線を向けた。やろうと思えば、いつでも大声を出して逃げられると、翠子はお腹の下のあたりに力を込めた。

「……わかった」

 教師のふりに引き戻されるようにして落ち着きを取り戻した青木が言った。

「あすみが大人にはまだほんの少し足りないってことがわかった。俺が急ぎすぎていた」

 青木の眼から翠子を含む世界がこそげ落ちて、南さんだけが映っていた。

「前にも言ったように、俺は学校の先生にはならない。大学を休んで、しばらくアメリカに行こうと思う」

 アメリカという単語が火星や南極などと同じくらい突拍子もなく響いた。目の前になぜか岩石がごろごろと転がる荒涼とした土地のイメージが広がった。

「その前にお互いのことをもっと知れたら、と思ってた。俺と君には特別な絆があるから。いつか一緒に白夜の国に行って、溶岩が氷の上を流れていくのを見ようって言い合ったように」

 南さんの視線がわずかに揺れて口ごもった。二人にしかわからない会話のようだった。翠子は居心地の悪さは頂点に達しつつあった。青木が何か言うたびに身の置きどころが削られていくようだった。

「それ、私がやりたいことじゃありません」 

 ためらいをぐっと飲み込みでもするかのように、青木をまっすぐに見て南さんは言った。青木から表情が消えて、いまの言葉を聞かなかったことにでもするように頭を軽く振った。

「君がもっと大人になるのを待って、また戻ってくる」

 そう言い残し、青木は踵を返して離れていった。

「大人とか子どもとか、よく言う」

 遠ざかる青木の背に向かって南さんが小さくつぶやいた。ぷいと吐き出すような言い方だった。

「行っちゃった」

 青木の姿が消えてからもしばらく固まっていた翠子がやっとのことで声を発すると、あー、と南さんが心底疲れたような声を出した。

「あの人いろいろ思い違いしてたんだよ。いま、橋本さんの前でしゃべってたら、小学生に向かってどんなにおかしなこと言ってるかわかってきて、こっちが恥ずかしくなった。なんかずっと芝居がかってるし」

「アメリカに行くって」

「先生じゃなくて、本当は俳優になりたいんだって」

「俳優……」

 少しの間、二人は黙った。

「……また戻ってくるって言ってたけど」

「そしたら、今度こそちゃんと学校とか親に言うだけだよ。でもアメリカに行ったらもう帰ってこないんじゃないかな。なんとなくだけど」

 それから南さんはしわを伸ばした『アルマジロ』に目を落として、「ごめん」と言った。

「橋本さん変なこと言われなかった?」

 ううん別に、と翠子は首を横に振った。変なことはいろいろ言われた気もするが、もうどうでもよかった。

 橋本さんには変なところばかり見せちゃって、申し訳なくて……と深いため息をつきながら、南さんはランドセルから自分の『アルマジロ』を取り出し、翠子に渡した。

「橋本さんのはくしゃくしゃになっちゃったから、こっちを持ってて」

「えっ、でも」

 ひょっとしたら粗末に扱うんじゃないかという予感があって、翠子は青木に『アルマジロ』を渡したのだった。南さんが一番得意なこと、大事にしていることが、この人にはどうせわからないだろうと考えた。予想は当たって、見事にくしゃくしゃにされたのみならず、都合よくそれを南さんが目撃することとなった。

 結果として、みんなで大事につくったもので人間を試すようなことをしてしまった。そのことに後ろめたさを感じていた。南さんは押し黙った翠子に頓着せず、涼しい顔でさっさと雑誌を交換してしまった。


 終わってみれば夏休みはあっという間だった。今年は記録的な猛暑だったとテレビでは伝えていた。それなのに約束していた日には雨が降って、結局みんなでプールには行けなかった。

 夏休みから秋にかけて、翠子たちは『アルマジロ』の第二号を出した。最初の第一号が評判になったせいで、第二号では同じ学区の中学生の中からも読みたいという人があらわれた。編集長としては第二号のほうが「これまでのあらすじ」を書いたり、読者のお便りコーナーをまとめたり、やることが多くて楽しかった。あきえさんにはまたコピー機を使わせてもらって、今度からはお金の代わりにできあがった雑誌をあげるということでけじめがついたのだった。

 第三号に取り掛かる頃にはすっかり冬になっていた。翠子が去年着ていたセーターやトレーナーは小さくなっていて、母があわてて買い足してくれた。毎年冬がやってくると、去年の冬の寒さをすっかり忘れていたことを思い知る。ひときわ寒い日にはこたつの中に頭まですっぽりと入って、内側の毛羽立った毛布をらくだのようだと考えながら砂漠地帯の気分を味わうことも思い出した。

 朝から空気が冷え込んでいて、風に撫でられるだけで頬がぴかぴかに磨かれそうだった。翠子は国語の授業中に自分の席から校庭を眺めていた。一学期は窓際の後ろの席だったのに二学期には教卓の目の前になり、そして三学期にもう一度窓際の後ろの席になって、くじ運がいいのか悪いのか微妙な一年になった。冬の窓際の席は窓ガラスから冷気が伝わってきて、教室でストーブが焚かれていてもいつもうすら寒かった。

 外ではマラソンの授業をやっていて、寒さにもかかわらず半袖姿の生徒たちが固まりになってグラウンドを走っており、翠子は無意識に身震いをする。

 こんなふうに体育をしている南さんの姿を窓から見つけたことを思い出した。まだ知り合いになる前のことだった。あのときは青木の姿もあった。

 青木に騒いでいた女子たちは教育実習生がいたことをきれいさっぱりと忘れてしまったようで、もう学校で名前を聞くこともなかった。たった一ヶ月の教育実習で来ただけだから無理もないかもしれないが、意識からの消え去り方が煙のようだった。

 あれから南さんとも青木について話すことは一切なく、青木という存在は次第に意識から薄れていった。それでもこうしてふと思い出すことがあると、俳優になりたくてアメリカに行ったというのは本当だろうかと考えた。

 できるだけ遠くにいてほしいと願っているせいか、想像の中の青木はニューヨークやロサンゼルスといったテレビで見るようなアメリカの都会ではなく、むきだしの山肌や大地が深くひび割れて砂埃の舞うような荒野の奥深くにいて、コヨーテやガラガラヘビと暮らしている。窓もないような粗末な山小屋の中でひとり芝居の練習をしており、頭の中の共演者たちに自分のセリフを朗々と披露している。そのイメージは青木が教育実習生として生徒たちに取り囲まれながらしゃべっていた姿と重なっている。

 いまつくっている第三号限りで南さんは『アルマジロ』のメンバーからいったん抜けることになった。中学受験をすると決めて、六年生になったらマンガを休んで勉強に専念したいという。ナントカ学園中等部とかいう、それこそマンガに出てきそうな名前の学校を目指すそうだ。

 第二号をつくっているときに「お母さんにマンガ描いてるのバレちゃった」と南さんはきまり悪そうに言った。もうこれでマンガは描けなくなると覚悟していたら、机の上の描きかけのマンガを一瞥されて「ほどほどにしなさいよ」と言われただけだったという。

「学校の成績が落ちてなかったから別に気にならなかったみたい。成績さえ落とさなきゃいいなら、最初からそう言ってほしいよね」

 南さんは苦笑いしながらそうこぼした。だからマンガを休んで受験をするのにお母さんは関係なく、「あんまり期待しないで見学したら、校風がいい感じで行きたくなった」という南さん自身の意思によるものなのだった。

 しばらくの間とはいえ、こんなにマンガが上手なのにどうして描くのをやめてしまうんだろう、と考えてしまうのは本人じゃないからだろう。頭の中に灯台のように確かな光が差していても、それに向かって歩いて行くか行かないか、どこかに腰を下ろして少し休むかはその人の自由だった。南さんみたいな才能がなくても、いち早くマンガを描くのをやめた翠子にはそれがよくわかった。だからまたいつか戻ってもらえることを小さく願うだけだった。

 翠子も第三号が完成したら、しばらくは『アルマジロ』を休もうと考えていた。雑誌だから定期的に刊行しないといけないと、急き立てられるような気持ちで立て続けに出して、さすがにみんなちょっと息切れしてきていた。これ以上根を詰めたら小学生の遊びの範疇から逸脱して苦しくなってしまう。

 マンガ雑誌づくりは遊びだった。あの夏の日、青木から「ガキの遊び」と罵られて、実際にそうだし、それでいいと思った。特別な子だとか、もう大人だとか、誰かから言ってもらうことよりも、もうしばらくは子どものまま好きなように遊ばせてもらいたいし、そうする。

 南さんが辞めてしまうこともあるし、ほかに『アルマジロ』でマンガを描いてみたいと言う人も出てきている。これからどうするか、ちょっと考えなくてはいけない。もう二ヶ月もしないうちに、翠子たちは六年生になる。聞けば六年生の一年間はあっという間で、すぐに中学生になってしまうという。

 グラウンドの集団から遅れて苦しそうによろよろと走っている子がいる。翠子は自分を見ているようでしんどくなる。冬の体育はただやみくもに走ってばかりだから嫌いだった。たいてい五百メートルも走らないうちに喉から鉄の味がしてくるのだ。

 突然にチャイムが鳴って、授業が終わった。周りの子が教科書やノートをぱたぱたと閉じていく。ふたたび窓の外に目を落とすと、体操服姿の生徒たちの固まりがぱらぱらになって校舎に戻ろうとしていて、さっきのしんどそうな子が誰だったのかわからなくなった。

 廊下のほうから自分の名前が呼ばれたような気がした。その声が誰なのか確かめることもせず、「ちょっと待って」と返事だけして、翠子は教科書とノートを机の中にしまい込んだ。

〈了〉

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