頭から消してしまえば逃げられると思っていたことに捕まってしまった | 子どもの範疇 第14回
<第一回
<前の話
その夜、翠子は南さんが電車に乗ってしまう夢を見た。
南さんを引き留めようと追いかけているうちに、自分が南さんと入れ替わって電車に乗っている。電車は見たこともないような険しい山間を抜け、急勾配を登っていく。トンネルに入ると車内の電灯がすべて落ちて暗くなった。自分の両手すらわからないような暗闇の中で、なぜか用意されていたお弁当を手探りで食べた。自分自身を口に運んでいるようだった。食べ終わったら、少しもおかしいことなどないのにお腹がよじれてきて声を出して笑った。車内に閉じ込められた空気が右往左往した。記憶さえ頼りにできないほどに誰も彼もが遠かった。トンネルを抜けてしまったらもう二度と家には戻れないと感じたところで目が覚めた。
そんな夢を見たものだから、寝ぼけた頭のまま登校して自分の席についた。肩を叩かれて振り向くと、こずちゃんが『アルマジロ』を手にうれしそうにしていた。
「できたね。ほんとにできたね」
さっき南さんがこずちゃんの分を届けにきてくれたという。南さん、ちゃんと学校に来てるんだと翠子は安堵感でいっぱいになった。
本当だったら力を込めて『アルマジロ』の刊行をクラスの人にアピールするはずだったけれど、翠子は南さんのことにまだ気を取られていた。隣の席の子がこずちゃんが持っている『アルマジロ』を見て「なにそれ」と目ざとく反応したので、あわてて貸出用を取り出してその子に手渡したのだった。
それから一週間も経たないうちに『アルマジロ』の貸出予約はいっぱいになった。そうなったらいいな、と翠子が願っていたように人気が出たので、すぐには信じられないことだった。貸出用には二冊用意して、又貸しをされないように読み終わったら翠子に返してもらうようにした。貸出の予約は二十人以上になって、五年生だけでなく、ほかの学年の人も読ませてほしいと翠子のもとにやってきた。
あるとき、担任の先生から「君たちがつくったっていう雑誌だけど……」と声を掛けられ、怒られて没収されるのかと覚悟したら、「読んでる子にちょっと見せてもらったけど、すごく立派なものだね。感心した」と続いたので、拍子抜けしたのだった。おりっぺはあきえさんに見せてすごくほめられたという。翠子の兄も居間に置きっぱなしにしていた『アルマジロ』を気づかないうちに読んでいた。兄はにやっと笑って「早く続き」とひとことだけ言った。
こずちゃんもおりっぺもマンガが人気なので上機嫌だったし、翠子も編集長として気分がよかった。それでも、どこかで聞いてビギナーズラックという言葉は知っていたので、いい気になりすぎないように気をつけていた。マンガのことでいろいろな人に声を掛けられるせいか、南さんの表情も日に日に明るくなってきている様子だった。
あと数日で夏休みだった。休み中に次の号の計画を立てようとメンバーで話した。みんなで自転車に乗って少し遠くにある市営のプールにも一緒に行こうとも言い合った。
休みが近づくのはうれしかったけれど、帰りの荷物が増えるのがやっかいなことだった。毎日少しずつ学校から荷物を持ち帰るように、と先生から言われて、その日は絵の具セットやリコーダーを持って学校を出たのだった。
暑い日だった。午前中に水泳の授業があったので、さらにプールバッグも持っていた。水泳をしたあとの気だるい疲れに荷物の重さが食い込んでいくようだった。頭の上にセミの鳴き声が遠慮もなく降り注ぐ。帽子をかぶっていても首の後ろの皮がちりちりと焼けていくのがわかった。家に着いたら麦茶か、あればカルピス、と考えながら翠子はただ歩いていた。
「おい」
細い路地に差し掛かったところで、セミの鳴き声に割って入るように低い声が聞こえた。振り返ると青木がいた。その姿を見て、頭から消してしまえば逃げられると思っていたことに捕まってしまったのだと翠子は悟った。
「君、南あすみの友達だろう」
青木が私のことをはじめてまともに見たと翠子は思った。個体認識してたんだ、とテレビの動物番組で覚えた言葉が頭に浮かんだ。青木は昼間の空の下では目が痛くなるほどに白いシャツを着ていて、ふたたび先生らしさをまとっていた。自分たちは学校の先生と呼び止められた生徒に傍からは見えるだろうと想像して、翠子はつばを飲み込もうとしたが、からからに乾いた喉が上下に動いただけだった。
「彼女のこと探してるんだけど、知らない? どうしても会って話したいことがあるんだけど」
「知らないです。もう家に帰ったと思います」
「おかしいなあ。学校が終わったら、この辺りでって約束したんだけど、姿が見えないから。だったら、彼女の家まで案内してくれない?」
「私、家は知らないです」
こんなにはっきりと人に嘘をつくのははじめてだった。翠子は少し迷って続けた。
「……なんで南さんを探してるんですか」
「なんでって、それは用事があるから」
青木は学校で目にした先生の卵の顔を浮かべながら言った。
「教育実習が終わったのに、なんで小学生に用事があるんですか」
なんでなんで攻撃か、まいったな、と青木はとってつけたみたいに苦笑いをしてみせた。セミの声がひときわ大きくなったのに、遠くで聞こえるようだった。翠子の脳みそのどこかが熱さで焼き切れた気がした。
「……学校に言いますよ」
「何を?」
「その……南さんとつきあおうとしたこととか……」
精一杯の勇気を出して、できるだけ普通に聞こえるように言ったつもりなのに、声が震えてしまった。青木の目線はわずかに揺れたが、笑顔は保たれたままだった。
「おかしなことを言うね」
「南さんがそう言ってました」
「誤解だよ。そんな、ありっこないだろう。学校に言ったって、誰も信じないで笑うだけだよ」
そこで青木は深くため息をついて額の汗を手でぬぐい、あーあちい、と低く唸って続けた。
「あすみに余計なこと言ったのか? ん?」
翠子の顔をのぞき込む青木の顔から笑みが消えて、先生らしさを取り繕うのをやめたことがわかった。翠子は凍りついたようになって声が出なくなった。
「彼女、君らにまとわりつかれて迷惑してるって言ってたぞ。そろそろ中学受験を考えなきゃいけないのに、って」
嘘だ、と言おうとしたのに、唇がくっついたようになってすぐには開かない。
「子どもの遊びにつきあわなきゃいけなくて大変だってさ」
「知ってるんですか」
「は?」
「どんな遊びをしてたか、知ってるんですか」
太陽が真上にあった。体中から汗が噴き出して、頭がおかしくなりそうなくらいだった。自分はいま、すごく無駄なことをしようとしていると考えながら、翠子は手提げバッグの中に入れっぱなしにしていた『アルマジロ』を取って、青木に差し出した。
「これです。南さん、マンガ描いてたんです」
反射的に『アルマジロ』を受け取った青木はそれに目を落としたが、ページを開こうとはしなかった。
「こんなガキの遊びにあすみをつきあわせんな。お前らみたいなガキとつるむような子じゃない」
気だるくつぶやいて、青木はぞうきんでも絞るように『アルマジロ』を両手で軽くひねり上げた。そうなるんじゃないかと半ば予感していたことなのに、実際に目の当たりにすると翠子の胸は暗く塞がれた。
「それ、返してください」
青木の背後から声がして、南さんの姿が見えた。動きにあわせてラベンダー色のランドセルがかたりと鳴った。
(つづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?