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みんなが教育実習生にまとわりついている | 子どもの範疇 第3回

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それからしばらく南さんに声を掛けることができなかった。休み時間や放課後に一組をのぞくのだけれど、どうにもタイミングが悪いのか、休んでいるわけでもないのに南さんに会えないのだった。

 授業中もマンガ雑誌のことが頭を離れなかった。考え続けていないと、まだ存在しないマンガ雑誌が生まれることもなく消えていってしまいそうだった。スーパーの前に犬をつなぐみたいに、頭にずっと結びつけていないと不安だった。

 六大陸について先生が板書している社会科の時間、何の気なしに校庭のほうを見た。翠子の席は一番後ろの窓際で、くじ引きの席替えでこの席になったときは今年一年分の席運を使い果たしたと思ったものだった。教室は三階にあるから校庭がよく見わたせる。

 体育の授業中らしく、校庭では渡り鳥のようにV字になって人が移動している。そのV字の頂点にいるのがこの間の教育実習生だった。ということは一組の体育の授業だ。教育実習生の名前は青木というらしい。つい最近、クラスの女子たちがそう話していた。

 体操服姿の子どもたちが青木先生にまとわりついている。男子も女子もいる。世界名作劇場でやっていた「トラップ一家物語」の拡大版みたいだった。年の離れた兄がいるせいか、教育実習の大学生がやってきて喜ぶという気持ちが翠子にはいまひとつよくわからなかった。

 青木先生のすぐ隣に南さんを見つけて、翠子はあっと声を出しそうになる。背の高い南さんは遠目にはもう中学生みたいに見えて、ブルマの体操服姿がアンバランスに感じられた。南さんの肩に青木先生の手がぽんとのせられて、翠子は自分がそうされたような気がして思わず肩をすくめる。そのとき板書していた先生がこちら側に振り向く気配をみせたので、あわてて顔を前に向け、教科書を開き直した。

 授業が終わると、翠子は廊下のはずれにある水道に向かった。教室のすぐそばにも水道はあるけれど、トイレの近くなのでちょっと臭ってきそうな気がして、いつも水を飲むのは離れた場所にある水道だった。

 蛇口を上に向けて水道をひねる。水が出てきてから三秒待って飲むと冷たくておいしい、水道管にとどまっている間に溜まってしまう不純物も流されるらしい、とこずちゃんが言っていたので同じようにしている。翠子は大きく三口飲んだ。四口目もいきたかったけれどやめておく。まだ二時間目と三時間目の間の休み時間で、ここで水をたくさん飲むと消化がよくなりすぎるのか四時間目でお腹が大きく鳴ってしまう、というのがこれまでの経験則だった。

 手の甲で口をぬぐっていると、隣に人が立った。見ると南さんだった。さっきの体操服姿のままで、大人みたいに髪を耳にかけて、喉を鳴らして水を飲んでいる。

 動けなくなった翠子の目が、顔を上げた南さんの目と合った。

「あのう」

 南さんはハンカチで口の水気を拭いている。ブルマの内側には小さなポケットがある。南さんはそこにもちゃんとハンカチを入れているんだと頭の隅で感心しながら、翠子は言葉を続けた。

「私のこと、知ってる?」

 その瞬間、ばかなことを言ってしまったと翠子の顔が熱くなる。南さんが私のことを知っているわけないじゃないか。どんなふうに話しかけようかと頭の中で何度も練習していたというのに、なんという滑り出しだろう。

 ところが南さんは、あーと声を上げる。

「三組の……橋本さんでしょ」

 びっくりしている翠子に向かって南さんは続けた。

「前にトンカッチってマンガ描いてたでしょ。私読んだよ。おもしろかった」

 信じられないと翠子は思った。自分のマンガがほかのクラスの人の手に渡っていたなんて。それも南さんが読んでいて、おもしろいと言ってくれるなんて。

「あの、南さんに折り入ってお話が」

「折り入って」と言ったところで南さんが怪訝な顔をして、翠子はまた恥ずかしくなる。南さんに話をするなら、真剣さを伝えるためにも大人みたいな話し方をしようと思っていたのだ。母や兄が使っているのを聞きかじった言葉の中でも「折り入って」はことさら大人っぽい感じがして、大事に覚えて取っておいた。それなのに、いざ小学生の自分の口から言葉が出てくると、なんだか滑稽な、ちょっとふざけたような雰囲気が漂ってしまった。

「うーんとね、私いま体操服だから、休み時間中に着替えないと。でも放課後ならいいよ。今日は塾ないし」

 南さんの言葉に体が跳ね上がりそうになる。それを意志の力できゅっと抑えつけて、「じゃあ放課後に」と約束し、翠子は自分の教室へと戻っていった。それから、放課後、放課後……と心の中で唱えながら、残りの授業や給食の時間を過ごした。

 帰りの会が終わると翠子はランドセルを背負って廊下に飛び出し、限りなく駆け足に近い早足で一組へと向かった。ほかのクラスの戸は音を立てないように引いていたのも忘れて、つい勢いよくガラッと開けてしまう。教室を見渡すと、これから帰ろうとする子たちの姿がぱらぱらとあるけれど、その中に南さんはいなかった。絶望に体から力が抜けそうになる。さっき水道で約束したことなんて忘れて南さんは帰ってしまったんだ。

「あ、橋本さん」

 後ろから声がして、振り返ると南さんの姿があった。

「ごめん、ちょっとトイレに行ってて。待ってて」

 南さんはするすると教室の中に入って、棚の中に収納されているラベンダー色のランドセルを背負う。南さんという人を特徴づけるものの一つとして、このランドセルがあった。同学年の女子の中でランドセルの色が赤くないのは南さんしかいない。低学年の頃から「あのランドセルの色がちがう子」として南さんは知られていた。そんなに変わった色のランドセルを背負っていたら、意識がすべて背中に集中してしまって真っ直ぐに歩けないのではないだろうか。けれども目の前の南さんはごく自然にラベンダー色を背負いこなしている。

「行こうか。うちすぐだから」

 うち、とは南さんの家のことか。まさか、さっき知り合いになったばかりなのに、そんな……と思っているうちに、南さんはどんどん歩き出し、階段を下って、昇降口で靴を履き替えて、気がつけば校門から学校の外に出ていた。南さんは頭一つ分ほど翠子よりも背が高い。そのせいか歩幅も大きくて、ついていくのに必死になった。自分の家へ帰る道とは反対方向に進み、二回か三回か角を曲がる。

「ここ」

 目の前に高い建物があった。マンション、と翠子は息を呑む。南さんは夕方に再放送されてるトレンディードラマに出てくる人みたいに、マンションに住んでいた。
(つづく)

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