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南さんが住むマンション | 子どもの範疇 第4回

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 ガラスの重たそうなドアを開いて南さんは中に進む。南さんの住んでいる場所だというのに、子どもだけで建物に入っていいのかと心配になってしまう。

 薄いグレーや白のタイルが壁に貼られた空間にどっしりとした木製のベンチが置かれていた。ここに座っておしゃべりやなんかしたら楽しそう、と思った矢先、「こどもはここであそばない」と書かれた貼り紙が目に入ってぎくりとする。こうして子どもが二人でいると、それだけで遊んでいるように見えそうな気がした。

 南さんがどこからか取り出した鍵で奥にある自動ドアを開き、それからエレベーターに乗った。子どもだけで乗るのははじめてだったので、翠子の体は少しこわばった。天井の隅に鏡があって、そこに写る自分の姿は頭だけがやたら大きく見えた。

 エレベーターは四階で停まった。エレベーターのすぐ隣に南さんの住む部屋があった。ふだん寝起きしているすぐ横をエレベーターが上下しているということが不思議に感じられた。

 さっきと同じ鍵でドアを開いて「ただいま」と南さんが言った瞬間、翠子はどうしようと思った。ランドセルのまま人の家にやってきてしまった。これじゃ寄り道だ。南さんのお母さんから何か言われるだろうか。

 ところが家の中からは誰の声もしなかった。翠子は小声で「おじゃまします」と言って、靴を脱いで中に上がった。

「遠慮しないでいいよ。うち、お母さんが昼間会社で仕事してるから」と南さんが言って、それから少し気恥ずかしそうに「家に誰もいなくても、防犯になるからただいまって言うの」と続けた。

 ドアに「Asumi」という木のプレートのかかった南さんの部屋の通され、「座ってて」と言われたので、翠子は低いテーブルの前にちょんと正座した。南さんは部屋を出てしまい、一人になる。壁際にベッド、窓際に白い机が置いてある。どちらも子ども用ではなく、大人が使っていてもおかしくないようなものだった。床はフローリングで丸いカーペットが敷いてある。

 翠子の部屋は日焼けした畳敷きだ。ドアはふすまだし、寝るのは布団だ。学習机には一年生のときに貼ったひらがなのシールがはがれないまま残っている。

 自分の部屋とはかけ離れた大人っぽさに落ち着かずにいると、お盆を手に南さんが戻ってきた。お菓子と飲み物がテーブルに置かれる。麦茶だと思ってガラスのコップに口をつけたらコーラだったので、翠子は噴き出しそうになった。骨が溶けるから、という理由で家では誕生会とかクリスマスのときくらいしかコーラは出てこなかったし、そもそも翠子は炭酸が苦手で飲めなかった。がんばって飲み込んだけれども舌が痛い。正座の足もしびれてきて、口の中と連動しているようだった。

「足、くずしていいよ。好きに座って」

 そう言う南さんはベッドに腰掛けた。足を伸ばすと、しびれがより強く感じられて、翠子はつい顔をしかめた。コーラが足の中を流れている。

「それでええと、話って……」

 南さんの言葉に翠子は我に返った。ここまでさまざまなことに圧倒されて、自分の目的を見失っていた。足を伸ばしたまま、できるかぎり姿勢を正して、翠子はマンガ雑誌をつくろうと思っていること、南さんにもそこにマンガを描いてほしいと思っていることを緊張で早口になりながら説明した。

「はぁー」と南さんは息を漏らした。

「マンガか、マンガねえ……」

 無意識に翠子はコーラにまた口をつけていて、唇に刺激を感じたところで飲むのをなんとか思いとどまった。南さんは手を頬にあて、目を細めて唸った。

「うーん、あのね、この部屋、マンガがないでしょ」

 南さんから言われて、翠子は周囲を見回す。たしかに本棚はあるが、読み物の本や国語の辞書が並んでいるだけで、マンガは一冊も置かれていない。

「ここにあるんだ」

 南さんは立ち上がり、ベッドの隣にあるクローゼットを開く。ハンガーにかけられたコートなどのさまざまな衣類の下にしゃがみこんで、奥から衣装ケースのような箱を引っ張り出した。それを開くと中からマンガ雑誌や単行本があらわれる。翠子が知っているマンガも、知らないマンガもあった。『りぼん』や『なかよし』のコミックスに混じって『別冊マーガレット』のような少し大人っぽいのもあって、ちょっと読んでみたい、と手を伸ばしたくなったところで南さんが言った。

「五年生になったときにお母さんに言われたの。もう半分大人みたいなものなんだから、これからは趣味でもなんでも、本気で打ち込めるものだけに取り組みなさいって。マンガでもなんでも自由にやっていいけど、中途半端だけはやめなさいって」

「本気……」

「うん……。あ、うちのお母さん、別にマンガをくだらないとか、そういう教育ママみたいなふうに思ってるわけじゃないよ。勉強とか学校のことをちゃんとしてるなら何をしてもいいって言ってて、ただ時間は有限だから中途半端が一番よくないって」

 本気、とか、中途半端、といった言葉を聞いていると、なんだか竹の定規で背中とか手足をピシリとやられているような気分になり、翠子はくずしていた足をふたたび正座に戻していた。

「お母さんが言うのを聞いてるとね、私、そんなに本気でマンガを描く覚悟があるのかなって思って。プロのマンガ家になりたいとか、強く思ったことがあるわけでもないし……ほかに好きなこともあるような気がしてきて、よくわかんなくなっちゃって」

「うん」

「だからね、いまマンガと距離を置いてて。自分が本当にマンガが好きなのか考えてるっていうか……」

 「橋本さんの考えてることはおもしろいと思うけど……」と前置きした上で、少し考えさせてほしい、と南さんは言った。「OK」か「ダメ」のどちらかの返事しかないと思い込んでいた翠子は、気負いの持って行き場がなくなったようなかたちでうろたえつつ、「うん」と答えた。
(つづく)

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