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南さんは特別な人 | 子どもの範疇 第2回

<第一回

 自分はマンガの筆を折り、かわりにマンガ雑誌の編集者になるのだと、前の日に覚えたばかりの言葉を二つもつかっておずおずと宣言したときのこずちゃんとおりっぺの反応は、まことにふんにゃりと手ごたえのないものだった。

 こずちゃんの首は畳と並行になるくらいに傾げられ、おりっぺは足首にできた虫刺されの跡に気を取られて上の空になりかけていた。それにひるまずに熱を込めて説明していると、翠子の膝に畳の目が食い込んでいった。

   液体がじわじわと染み込むように、ようやく翠子のやりたいことが飲み込めてきたのか、二人の目は夢を見るように空中に浮かんだ。

「えー、ほんとにマンガ雑誌がつくれたらいいねえ」

「うん、すごいよ。五年生でそんなことしてる人なんていないよ」

 こずちゃんとおりっぺはおやつを食べる手も止めて、すごいすごいと言い合っている。学校が終わったあと、二人には翠子の家に集まってもらっていた。

 こずちゃんには正統派少女マンガを、おりっぺにはギャグマンガをお願いしたいと翠子は告げた。

「正統派」

「ギャグ」

 二人はそれぞれつぶやいて、だまってしまった。自分の内側に潜ってリクエストに応えられるかどうか検討している様子だった。ひょっとしたら、もうアイディアが浮かびはじめているのかもしれない。低いテーブルをはさんで二人に向かい合っている翠子の体は無意識に前のめりになる。

「スイちゃんはどんなマンガ描くの?」

「私は描かないよ」

 翠子の返事に二人は不思議そうな顔をした。マンガを描かないかわりに原稿を集めたり、目次や次回予告のコーナーをつくったりするのだと説明すると、半分は納得したような、それでも腑に落ちないような表情だった。

「なんか、せっかくの雑誌なのにスイちゃんが描かないのは残念だね」

「うん、私たちだけが描くのは悪い気がするなー」

 まったくかまわない、と翠子は言った。マンガはもう十分描いたし、これからは雑誌をつくってこずちゃんやおりっぺみたいな新しい才能を世に送り出したい、と真面目な顔で伝えると、二人は「新しい才能」のところに反応して体をよじった。

「それでもさ、雑誌に載るマンガが二つだけっていうのは、ちょっとさみしい気がするような……」

 ぱりんぱりんと薄焼きせんべいをかじりながら、おりっぺが言った。おりっぺはクラスで一番小柄でやせている女子なのによく食べる。

「それはもう一人考えてあるの」

「誰?」

「南さん」

 翠子の言葉に二人は大きく目を開いた。

「ええっ、南さんって、あの一組の南さん?」

「すごい! スイちゃん、南さんと知り合いなの?」

 いつも落ち着いているこずちゃんがめずらしく興奮していた。全然知り合いじゃない、しゃべったこともない、と翠子が言うと、部屋はしんとなり、誰かがつばをごくりと飲み込む音が聞こえた気がした。ひょっとすると自分が飲み込んだのかもしれなかった。

 翌日、帰りの会が終わると、翠子は背筋を伸ばして五年三組の教室を出た。いつもだったら、おりっぺのいる二組に寄るところだけれど、今日はちがう。窓側に吊るされた給食のかっぽう着袋や体操服袋が並ぶ廊下を真っ直ぐに歩いて一組に向かう。

 上履きのゴム底が廊下にこすれてきゅっきゅと音が鳴る。廊下の端でけんかとふざけの区別がつかないくらいの取っ組み合いをしている男子たちがいる。ランドセルを背負って母親かなにかのように真面目な顔で立ち話をしている女子たちがいる。そういったものが緊張のせいかスローモーションに見えた。

 ガラッ、たのもう!

 そういう気分だったが、実際には音のしないようにスーッと一組の入り口を開けた。体の半分だけを一組に差し入れて、目で南さんを探す。と、教室の空気がいつもとはちがう具合にふわふわと浮き立っていることに気がついた。ふわふわの出所は教卓のあたりにできている人だかりだった。中心に見知らぬ若い大人の男の人がいて、一組の子たちがそれを取り囲んでいるのだ。

「先生は芸能人だと誰が好きなのー?」

 人だかりの中から出た質問に、初日からそれ聞くのかあ、とジャケット姿の男の人は頭をかいて「うーん、内田有紀、かな」と答える。えー、という女子たちの声に混じって「俺もー!」という男子の声が響き、笑いが起こる。

 その輪のはずれのほうに南さんを見つけたのだった。南さんは窓際にもたれかかって、一緒になって笑っている。カーテンが風に脹らみ、その姿を隠したり、また現したりしている。それを見ていたら、南さんに声を掛けようとしていた意気込みがしぼんでしまい、翠子は体を廊下側に引っ込めた。

 先生と呼ばれている男の人は教育実習生だった。今朝、クラスの女子が「一組にかっこいい教育実習の先生がきた」と興奮しながら言っていたのを覚えていた。「なんでうちのクラスには教育実習生が来ないんだろう」とその子は不満そうだった。

 最初の勢いが肝心なのに、出鼻をくじかれてしまった。一度もしゃべったことのない南さんに声を掛けるのは緊張することなので、まずマンガ雑誌の創刊、そして原稿依頼という大きな計画をぶつけて、相手が驚いている隙に自己紹介など済ませて、なんとなく知り合いみたいになってしまおうと思っていた。

 それなのに、教育実習生である。転入生と同じくらいのインパクトだ。教育実習生に気を取られているところにマンガの話を持ち出しても、まともに聞いてもらえないかもしれない。

   それでも翠子は廊下から南さんのほうに視線を送り続けたが、一組の子たちの意識は完全に教育実習生に吸い寄せられており、残念ながら出直すしかなかった。

 いくら知り合いじゃないとはいえ、同じ学年の南さんにこんなに緊張するのはわけがある。

 南さんは背が高くて、手足がすらりと長く伸びている。髪型はボブカットというやつで、ふつう小学生がそういう髪型にしたら単なるおかっぱになってしまうのに、前髪をつくらずに額を出しているせいか、大人っぽく決まっている。指先まで小麦色に日焼けしていて、毎年、運動会のリレーでは女子アンカーをつとめている。

 こんなふうにルックスや運動で目立っているというだけでも気おくれしてしまうのに、そういう子がマンガを描くのもとびきりうまいというのは不思議なことだった。こずちゃんやおりっぺもマンガがうまい。でも南さんはもう一段上で、プロになれる少し手前くらいなんじゃないかと翠子は思っていた。

 回し読みで翠子のもとにやってきた南さんのマンガをはじめて読んだとき、頭の芯がしびれたような感覚になった。南さんのマンガはファンタジックな作風で、体育館の用具室にあるフラフープをくぐった少女が異次元に迷い込み、魔法を身につけて、やがてその世界の危機を救うという話だった。読んでいると頭の中で火がはぜ、それが熱になって体中に回り、つむじから細く煙がのぼるような気がした。

 ずっと読んでいたいと思ったのに、ストーリーは四巻で完結してしまった。みんなは早く終わっちゃったと残念がっていたけれど、物語をちゅうぶらりんにせず、なんともいえない余韻を残しつつ完結させられるというのがすごいことだと翠子は知っていた。このときの衝撃が震えを残したまま、いまも耳の奥でワーンと小さく響き続けていて、その音にしたがうようにしてマンガ雑誌をつくろうと考えるようになったのかもしれない。

 南さんは特別な人で、それだからぜひとも雑誌に描いてもらいたかった。

 南さんに声を掛けることをあきらめて家までの道を歩いていると、足元に白い小石がころがっていたのでそれを蹴った。石を追いかけてもう一度蹴る。この石を家まで運べたら、南さんはマンガを描いてくれる。そう決めて蹴り続けていたら、どぶの蓋が金網になっているところにぽちゃんと音を立てて落ちてしまった。

 いまの全部なし。ランドセルをチャカチャカいわせながら、家まであと少しの道を翠子は駆けていった。
(つづく)

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