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幸せトランスフォーム


私が小さい頃のテレビドラマではよく、プロポーズする男性が「君を幸せにするよ」と言っていた。


当時、小学生ぐらいで煎餅を食べながら見ていた私は「幸せってしてもらうもんじゃないんじゃないの」と思っていた。


それは今も変わらずで、子供の時から生粋のあまのじゃくである。


最近は、可愛らしくて強気の女の子が、「私が幸せにしてあげる」と言ってたりする。男女のセリフが変わったとて、同じだ。


幸せとは与えられるものではなく、自分で努力して築き上げるか、そこにあることに気づける観察眼を持つかで見出すものだと思う。


私は、仲良しは努力と信じている人間だ。


ローマと一緒だ。怠ければそれなりに綻ぶ。


家族はサーカスだと思ってきた。鍛錬しなければ成立しない。それぞれの役割がある。
道化も花形もいて、時に離れ技にチャレンジしなければならない。


空中ブランコは生まれた時から、できるわけではない。玉乗りだって、火の輪くぐりだって同じだ。


家族とはかなりのことを共に行い、鍛錬して、修行して、巡業している。世間様というお客様を感じながら、私たちのショーをしていると、私はそう思っている。


本当にショーをする家族に出会った。


この人は全くたまげた人だ。


作り事の中に見事に血を流す。


物語の中に生きる人の躍動で、まるで近所に住んでいるかのような錯覚を起こさせる。


幸せになることを恐れない人だ。


果敢に飛び込んで、そして成功させる。


幸せになることは、時に勇敢でなくてはならない。そのことを、ダイナミックで繊細でもある物語で教えてくれる。


とき子さんは、私にとれば円花だ。


美しく明るく華やかで、自分と近しいようで遠い。

混沌を突き抜けて、輝きを放つ力はキラキラしていて、到底敵わないと目を細めてしまう。


ただ、円花には円花の葛藤や生きづらさや孤独がある。


私から見てどこまでも眩しかったとしても、実際光を放つ際には、消耗も疲弊もしている。


みんながどこかは乾いていて、足りないものを求めている。


大事な家族のために、離れていた家族の心がひとつに折り重なっていく。あの人の喜ぶ顔が見たい。取り戻せないものを別の歓喜で更新したい。


家族を幸せにしたいと願い、行動に移していき、変化していくのは自分たちである。


しかも、家族を超えて、多くの人を巻き込んで、沢山の人の思いが花束を作るようにまとまっていく。


最後のフラッシュモブの場面は感嘆をあげた。


フラダンスを知らない私が、フラダンスを目の前に夢想して、圧倒される。とき子さんの筆致だけで、私はそのショーを堪能した。


才能という言葉の万能に頼るのは忍びないが、
とき子さんは、人に幸せを気づかせる才能がある。


人をウキウキさせて、ワクワクさせて、笑顔にすることが得意なのだから仕方ない。


大原田家は、見事なサーカス集団である。


客員をこんなに呼べるのは地力があるからにほかならないし、結局人柄だし。


間違えた。大原田家は見事なフラ集団である。


お母さんがセンターで踊るスピンオフがあれば、私はまた最前列で堪能したい。


とき子さん、ほんと、まじでデビューしてよ。


幸せトランスフォーム。


形を変えて、品を変えて。


時が流れて、人は変わるけれど。


幸せの形はどんなふうにも展開できる。


仲良しの努力を忘れなければ、幸せはなるものだと、そこにあるものだと気づけたら。


おすすめすると読むの躊躇しますよね。


面白いから絶対読まないでください😊

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