スリランカ旅行記:あげすぎない歩き方
人生初のスリランカ!!
まー、普段の生活で使わない筋肉とか神経とか使ってます。
移動手段は主に「スリーウィーラー」。
どの車に乗るか、値段交渉はいくらでOKとするか、目的地と関係ないお店にも連れてくよ言われたらどうするのか・・・細々と判断が必要です。
そんな感じで今日一日、街中をスリーウィーラーを使ってあちこち回っていましたが、自分がいかに「受け止めすぎ」「あげすぎ」ているかが分かってきましたよ。
「あげすぎ」族としては、相手から強く主張されると「まあ・・・そこまでの害はないしいいか」とか簡単に折れちゃうのですが、それをこちらでやっていると数時間で身が持たなくなってきます。(ぐったり疲れて「あげすぎていた・・・!!!」と気づいた今日の夕方)
「タクシー乗らないか」の声かけはガンガンくるし、断ったら断ったですぐに断れてくれるわけではなく「どこに行くのか?」「いくらなら乗るのか?」など声かけが続き、うっかりそういうのに返事したりしていると際限がないです。
「タクシーに乗るか乗らないか」ひとつとっても、何度もしつこく断る必要があり、「お前の意志を見せよ」って問われる場面がとても多かった。
「乗ろうかなー・・・違うのにしようかなー・・・やめようかなー・・・」とかポワポワやっていると、その間にどんどんタクシーの運ちゃんがあちこちからやってくる。
「乗らない」なら「乗らない」の意志表示を体の中からボディランゲージとして発しないと引き下がってもらえません。
とにかくうっかりボンヤリしてたり、「まあいっか」とか言って相手に押し切られているとどんどんいらないもの、余計なものが入ってきたりする感じが満載の1日でした。
何だか境界線がどんどん侵食される感じのカオスの海だなー。。。。。と、今日の午後はホテルに戻ってぐったり疲れていたのですが、「ん・・・・あげすぎてたのかー」「断るのは失礼って思っていたのかー」と気づいてしまいました!(ヒューヒュー!!)
相手が何を言おうが、「わたしは乗らない」なら「乗らない」。以上。
相手がどういう説得を試みようとしても、「わたしは要らない」なら「要らない」。以上。
相手の話に乗ってあげる必要も、会話をしてあげる必要もない。
断ることに罪悪感とか一切いらないし、失礼でもない。
そう思ってからは大分気が楽になり、外に出てみてもスイスイ平気で歩けます。
「わたしの意志はなんなのか」「この通りでご飯屋さんを見つける」「タクシーは乗らない」
自分の意志をしっかり持って、その意志で、「わたし」というもので、体を充満させると、なんかノシノシ堂々と歩ける。
変な緊張とか過剰なバリア?も使わず、街中を歩く人たちの中にすっと溶け込んで歩けます。
そうするとあら不思議。タクシーの運ちゃんからあまり声をかけられない。かけられたとしても向こうがちょっと弱気だったり、あっさり引き下がる。
不思議よね。
「境界線侵食されてる」って思ってる時は、自分の意志は明確に意識してなくて、代わりに緊張感のような「声かけてくれるなよ」オーラを出して身を守ろうとするんだけど、全然守れてないしガンガン声をかけられる。
一方で「あげすぎていた」と自覚して以降、「自分の意志は何か」を意識しながら動いていると、なんか軸がしっかりして、でも別に人から声かけられてもいいよっていうしなやかさもある。そして、どうでもいい声かけはなされなくなってくる。
「侵食される」と思っているときは、自分の内側(の意志)がスカスカだから浸透圧で外のものが入ってくる感じなのかもなー。
「侵食されない」ように殻を分厚くしようとついついしがちだけど、殻を分厚くしたところで浸透圧で入ってくる。
そうじゃなくて、自分の内側を自分の意志で充満させたら、別に殻なんかなくても要らないものは入ってこない。カオスの海をスイスイ泳げる。(充満させる感じは、力を入れる感じではなく、自分の意志を旗として「立てる」感じ。そして立てたのなら、「これでいいのかなー」「違うかなー」とかつべこべ言わない。立てる旗は変えるなら変えればよくて、とにかく自分が立てた旗を信頼してそこに集中する。)
そんな感じで、今日は超貴重な実践的な学びが得られた日でした!!
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