もやし男2
ゴンは、この肉体を活かせる新たな道を模索していた。マッスルコンテストの失敗から学んだことは、単に筋肉を鍛えるだけではなく、その力を活かす場を見つけることが重要だということだった。コンテストに全投球した結果、財産を失うのはリスクが高すぎる。夢だけじゃ腹は膨れない。身をもって実感した。
そうしてみつけたのが、トレーニングジムの講師だった。見事な肉体を持つゴンはすぐに採用をされ、同僚にも一目置かれ、ゴンのボロボロになった自尊心は取り戻された。
初給料が入ったその日、ゴンは大きな塊の赤身肉を買った。久々にもやし以外の食事だった。大量に塩を振り、前面にこんがり焼き色をつけた。中はレアになっている。好みの焼き加減に仕上がった肉を、ゴンは思い切ってかぶりついた。
ん? ゴンは思わず口に入れた肉を吐き出した。なぜならそれは、まったく味がしなかったからだ。
匂いはとてもいい。腐っているわけではなさそうだ。おそるおそる、もうひとくちかじった。だがそれは、モノを口に含んで咀嚼しているだけで、やはり味がまったくなかった。何とか飲み込みはしたものの、喉には奇妙な違和感しかない。
ゴンは、額に手を当てた。熱があるわけでもないらしい。
ふと思いついて、ゴンはためしに昨日まで食べていたもやしを冷蔵庫から取り出し、塩をふってレンジでちんして食べてみた。
「うまい」
食べ物の味がした。うますぎて泣くかと思った。
以来、ゴンはもやししか味を感じなくなった。他の食べ物は、プラスチックや綿を口に入れているようで何の味もしなくなった。
こんな奇天烈珍妙な体験をしている人間が、まさか他にもいるとはおもわなかった。
ゴンは、硬い表情の富田に尋ねた。
「あなたは…何しか食べれないんですか?」
「僕は…ユッケです」
「いつから?」
「三週間前くらいからです。栄養が気になって他の物も口に入れるんですが、まずくてとても食べられない。ゴンさん、あなたは平気なんでしょうか? 1つの物しか口にできない状況は、身体も精神も僕には辛くて……」
俯く富田の下に、ハルカが頼んだユッケが届いた。
「ほら、富田さん食べなよー」
ハルカに勧められ、富田はユッケを箸でつまみ、口に入れた。
「うまい」と、顔が綻ぶ。
「ゴンちゃん、なんとかならないのかな」
「なんとかって?」
「富田さん。他のも食べれるといいんだけど。ゴンちゃんはすっかり馴染んでいるけど、食べたい物が食べられないのってつらいじゃん」
ゴンは首をかしげながら考え込んだ。確かに、自分がもやししか味わえないことは辛くないとは言えなかった。しかし、他の食べ物を味わうことができなくなってからもう二年も経ち、もやし以外の味を忘れてしまったような気がしていた。
「ハルカ、富田さん。でも、もやし以外のものを食べることができなくなった理由はわからないんだ。医者にも見てもらったけど、特に異常はないと言われたんだ」
富田はゴンの言葉を聞いて目を丸くした。
「医者に見てもらったんですか? 僕も何度か病院に行ってみましたが、特に異常がないと言われました。でも…僕だけじゃなくで他にもなっている人がいるので、きっと、何か原因があるんじゃないかと思うんですよね」
ゴンは考え込んだが、特に思い当たる節はなかったなかった。
「とにかく、富田さん。もし何か新しい情報があったら、教えてください。僕も一緒に考えるんで」
富田は頷きながらゴンに感謝の言葉を伝えた。
しかし、その後の数日で、ゴンたちだけでなく、他の人々も食べ物の味がしなくなるという奇妙な現象が広まっていった。人々は様々なものを試してみたが、どの食べ物も味がしないのだ。世間は混乱し、専門家たちはこの現象の原因を解明するために奮闘していた。
このニュースが大々的に放送された日、トレーニング終わりに、富田がゴンの元にやってきた。
「ゴンさん、僕、ついにユッケも味がしなくなりました」
「なんだって」
ニュースによると、人々はどんな食べ物も味がしなくなるらしく、いままでユッケだけは味を感じられていた富田は、この現象の初期段階だったのかもしれない。ゴンの味覚は特に変わりなかった。
「ゴンさんと僕だけだと思っていたのに、なんだかちょっと残念です」
「富田さん、なんだか顔色が悪くないですか?」
「大丈夫です。これだけたくさんの人がなっているなら、きっとすぐ原因もはっきりするでしょう。このジムにきたのはゴンさんと接点が欲しかっただけですので、今日で退会しようかと。さきほどハルカさんにも言いました」
「そうですか」
気丈に振舞っているが、富田の顔色は明らかに白く血の気がなかった。もしかしたら、何もたべていないんじゃないだろうか。
「富田さん、きっと治りますから。それまでは辛いでしょうがなにか食べてくださいね」
ゴンの言葉に、富田は噴き出した。
「もやししか食べていないゴンさんに言われても」
それもそうか、とゴンは自分の言葉の説得力のなさに反省した。会釈をして、富田は去っていった。
もやしだけでも、食べられるのと食べられないのでは雲泥の差がある。もやしばかりの日々で、飽きていないわけではないが、それでもちゃんと味がする。もやしにもいろいろ種類があるので、食べ比べてみても面白い。
もし、もやしまでも味がしなくなったら……そうすると食事ではなく、点滴やサプリを摂取したほうがマシかもしれない。
食べるというのは、人間の基本的な欲求だ。それが満たせないストレスはどれほどだろうか。点滴やサプリで栄養を取りながらも生き続けたいと思える人間は、ほんの一握りなんじゃないか。
数日後、ゴンの嫌な予感は当たってしまった。富田が餓死をしたらしい。
富田だけでなく、味をかんじなくなった人間のうち、ぽつりぽつりと死人が出始めた。
味覚をなくすだけだと軽視されていたこの症状が、間接的に死人を出すことになり、研究をする専門家の数は増やされていった。もやししか食べない名物トレーナーのゴンの元にも専門家はやってきた。
もやしの味だけ感じて、かつ見事な筋肉をもつゴンは、いつしか有名人になった。ゴンの真似をしてもやしだけを食べる「もやらー」も出現した。
そんなゴンをハルカははやし立て、ジムは今までにないほど入会希望者が殺到していた。
深刻な現象と裏腹に空騒ぎの現象のはざまで、ゴンは複雑な胸中でいた。
「おそらく、この現象の原因は味覚受容体に何らかの異常が起きている可能性があります」
と、ある日専門家が言った。ゴンは「いまさらなにを」と鼻白む。味覚に異常があるなんてこと、はなから分かり切っていたことだろう。
ゴンは、井上と名乗る50代の大学教授の顔をじろりと見た。マッチョなゴンに睨まれても、井上は動じない。
今日は、この教授に呼ばれて研究室まで来ていた。様々な実験道具が並び薬品臭い研究室は、病院とさして変わらない。強いて言うなら、井上の後ろにギャラリーのように若い男女の学生が並んでいることくらいだ。
「私たちは、ある仮説の元、味覚受容体に異常がある場合、それを修復する薬をつくりました。特殊な薬剤を使用することで味覚受容体を活性化させるというものです。ゴンさん、飲んでもらえませんか」
紫色の液体を井上はゴンの前に差し出した。受け取った液体は、なんの匂いもしない。
「大丈夫です。私も飲みましたが、無味無臭です」
ギャラリーがゴンをみつめている。訳の分からない薬品など飲みたくなかったが、ゴンは「もうどうにもなれ」という気持ちで、薬剤を呷った。
「……かれえええ!」
口中が火を吐くように辛かった。誰かが差し出した水を飲み干すが、口中がひりひりとしている。
「なにが無味無臭だ。めちゃくちゃ辛いぞ、これ」
「辛いんですか!」
井上が興奮したように尋ねてくる。
「ああ、もう激辛カレーでもこんなには…て、え?」
辛い、だと? ゴンは久々の感覚に戸惑った。
「じゃ、じゃあこれどうぞ」
井上が差し出したのは、あんこだった。辛い物のあとに甘い物というのはあまりにも単純だが、ゴンは恐る恐る、あんこをひと匙すくって、舐めた。
「ちょっとだけ…あまい」
ゴンの反応に、井上は狂喜乱舞の勢いで跳ね回り、歓喜の雄たけびを上げた。
その様子にギャラリーも沸いた。
ゴンは、信じられなかった。もうひとさじ、あんこを食べた。甘くてほんのり豆の味がする。
もやしにかけた調味料の味は分かるので、ドレッシングに含まれた甘味は分かるが、これはまぎれもなくあんこだ。あんこの味がした。
このことは瞬く間に治療法を待つ人たちへのニュースとなり、人々の味覚を取り戻すための希望の光となった。ゴンがあんこの味を理解できたのは、薬品を飲んだ直後だけだったので、薬はしばらく飲みつづける必要があるようだった。
ゴンは、仕事を休み披検体研究に付き合うことにした。他にも数人の味覚がない成人男女が集められて、研究はすすめられた。
そんなある日のことだった。
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