見出し画像

《美術史》唯美主義

こんにちは。

Ayaです。

《美術史》のマガジンを『ココ・シャネル』以来、1か月も更新していないことに気が付きました汗
更新しようと、『唯美主義』『象徴主義』『世紀末美術』について調べていたのですが、なかなか理解が進みませんでした。どのグループにも入っている画家も複数名いて、定義が曖昧だからです。今のところ、私の理解では

こんな感じで『世紀末美術』のなかに『唯美主義』と『象徴主義』が重なりあってあるイメージです。そもそも画家たちの個性が強すぎて、『〇〇主義』と括ること自体が難しいのかもしれません。なので、こんなほわーとした概念で書いてますので、ご了承ください。

唯美主義

19世紀後半の功利性よりも『美のための美を追求すること』に最高の価値を置いた芸術思想です。『耽美主義』とも呼ばれています。ずいぶん前に取り上げた『ラファエル前派』の影響を受けており、さらに進化させたものと解釈してよさそうです。(彼らについてはこちらをご覧ください)

アルバート・ムーア(1841〜1893)

アルバート・ムーアは1841年肖像画家の次男として生まれました。幼い時から父に素描を教えられ、兄とともに画家として成長します。
ムーアはジョン・ラスキンに影響を受けた上、ウィリアム・モリスのもとでデザイナーとしても働いていました。ラファエル前派をさらに進化させ、『アザレア』を発表します。この作品を見たイギリスの詩人スウィンバーンが「この絵の意味は美そのものだ。存在するということだけが,この絵の存在理由だ」と称賛し、『唯美主義』の代表的な作品となります。
ムーアは気難しい性格でなかなかアカデミーへの入会も認められませんでした。1893年亡くなりました。享年52歳。

アルバート・ムーア『アザレア』
アルバート・ムーア『真夏』


フレデリック・レイトン(1830〜1896)

フレデリック・レイトンは1830年に裕福な輸入専門業者の家に生まれます。パリやフィレンツェで絵画を学び、イギリスに帰国後ラファエル前派の面々と交流しました。ヴィクトリア女王に愛され、その作品の売上金で邸を建てました。その屋敷は彼の厳しい美意識によってチェックされ、唯美主義を代表する建築物となりました。

レイトンの邸(一部)
レイトンの死後、美術館となっている。


1864年アカデミーに入会し、1878年から1896年会長に就任しました。1896年画家で初の男爵に叙爵されますが、翌日急死してしまいました。享年66歳。

フレデリック・レイトン『フレミング・ジェーン』

ジェームズ・ホイッスラー(1834~1903)

『唯美主義』の代表的な画家としてあげられるのはジェームズ・ホイッスラーです。ホイッスラーは1834年マサチューセッツ州に生まれ、当初は軍人を目指しましたが陸軍士官学校を放校となり、画家を目指してパリへ移住しました。パリとロンドンを行き来する生活で、ロセッティ兄妹とも交流がありました。当時の恋人を描いた『白の少女』で注目を浴び、以後ロンドン美術界で活躍しました。彼の作品は人物の内面よりも色彩のハーモニーを表現するようになり、『シンフォニー』『ノクターン』といった音楽用語のタイトルが増えていきました。

ジェームズ・ホイッスラー『陶磁の国の姫君』
当時日本美術を愛好する『ジャポニズム』が流行っていた。しかし、あまり中国の美術とも見分けがついておらず、中国の美術品も混じっている。
ジェームズ・ホイッスラー『灰色と黒のアレンジメントNo.1』
ホイッスラーの母をモデルとした作品。母国アメリカでは母の象徴とされている。


1886年にはイギリス美術家協会の会長に就任し、1903年亡くなりました。享年69歳。

オーブリー・ビアズリー(1872~1898)

『唯美主義』は時代が経つにつれ、世紀末だったこともあり悪魔的・退廃的な作品が増えていきます。彼らの作品は『デカダンス』と言われ、その代表的な存在がオーブリー・ビアズリーでしょう。
ビアズリーは1872年金細工職人の息子として生まれます。幼少時から病弱で、結核に苦しみ続けました。
エドワード・バーン=ジョーンズの画室に訪問したことで、画家を志し、独学で学び始めます。バーン=ジョーンズの紹介で美術学校の夜間学校に通ったことが唯一の正式な絵の勉強でした。バーン=ジョーンズの同輩ウィリアム・モリスには全く相手にされなかった上、盗作呼ばわりされましたが、「彼の作品はただ旧弊な代物を模倣したに過ぎないが、僕の作品は新鮮で独創性に溢れている」と言い返しました。
1893年オスカー・ワイルド作の『サロメ』の挿絵を描き、一躍注目を浴びました。デカダンス文学の最高傑作である『サロメ』を、その悪魔的な鋭いペン画で表現したのです。

オーブリー・ビアズリー『サロメ』挿絵

ワイルドのおかげで脚光を浴びたビアズリーでしたが、失ったのもワイルドが原因でした。1895年ワイルドが男色の罪で逮捕されると、同一視されてきたビアズリーもイギリスに居づらくなり、パリに逃れます。パリから戻りましたが、貧困と持病の結核に苦しめられ、1898年25歳の若さで亡くなりました。

『唯美主義』、ここまでとします。ムーアやレイトン、ホイッスラーまでは『唯美主義』って感じで好みなのですが、ビアズリーまでになるとついていけないですww。とはいえ、ワイルドに巻き込まれたビアズリー、可哀想すぎる‥(;ω;)
『象徴主義』も取り上げたい画家たくさんいるので、まとめるのが大変そうです。








この記事が参加している募集

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?