《世界史》ローマ帝国の東西分割
こんばんは。
Ayaです。
久しぶりのローマ史の更新です。
軍人皇帝時代(235〜284)
ヘリオガバルスの後に即位したいとこのセウェルス・アレクサンデルも給料未払いのため暗殺され、帝国は再びの混乱に陥ります。
ネロやコンモドゥスの死後にも同じようなことが起きましたが、今回はさらに複雑な要因が追加されていました。
それは、蛮族などの外敵による領土への侵犯です。この侵犯を阻む目的で、辺境各地への派兵が強化されていました。その結果、各軍団の政治的発言力も強まり、ついには各地の軍団を後ろ盾に皇帝を僭称する者たちが雨後の筍のように現れます。このようなものたちを全てまとめて、軍人皇帝と呼びます。わずか50年の間に、その数は18名にも及びました。
なので、今までの四皇帝の年や五皇帝の年のようにひとりひとりを紹介するのは省略させていただき、一覧表にまとめました。
ディオクレティアヌス(244〜311)
この混乱の時代をおさめたのが、ディオクレティアヌスでした。
彼の父は解放奴隷だったと言われており、一兵卒から成り上がった人物でした。
内乱を鎮圧したディオクレティアヌスは、内政の改革に取り組みます。
まず、ひとりでの統治は不可能であると判断し、ある決断を下します。帝国の領土を分割し、信頼する腹心をもうひとりの皇帝に任じます。さらに分割し、正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)、それぞれ二人の皇帝が治めることとなったのです。
この制度はテトラルキア(四帝統治)と呼ばれるようになりました、
我々のイメージではドイツの東西分割のように東西の交流がなかったように感じますが、東西の交流は普通にありましたし、普通のローマ市民の生活にはなんら影響はありませんでした。一方で、ディオクレティアヌスたちは前線に宮廷を置くことが多く、ローマ市内は荒廃し始めます。
また、ディオクレティアヌスは従来の皇帝崇拝を強化します。当時相当な信者数になっていたキリスト教徒たちはまたも拒否したため、ディオクレティアヌスは弾圧を行います。のちに、最後の弾圧と呼ばれるものです。
そもそも、テトラルキアが維持できたのははディオクレティアヌスの力量があったからでした。彼が引退すると、ローマ帝国は再び混乱に襲われるのです。
最近光の君へ関連しか投稿してなく、『あれ、日本史専門に改宗したんか(^^;;』なんて思っていたため、なかなか更新してませんでした。それもなかなか時代が進んでなくてまずいです(白目)
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