《世界史》ニコライ2世とロシア革命
こんばんは。
父アレクサンドル3世の死後、即位したニコライ2世。彼はヘッセン大公女アリックスと結婚しましたが、この結婚がロシア革命を招くこととなります。
ニコライ2世(1868〜1918)
ニコライ2世は1868年アレクサンドル3世と皇后マリヤ・フョードロヴナとの間に生まれます。アレクサンドル3世は次男として生まれ後継者として育てられなかったため、長男ニコライ2世を厳しく育てます。父の厳しい指導にも、母マリヤの優しさを支えに耐えてきました。1890年には世界一周の視察旅行を行い、翌年に日本に立ち寄ります。日本各地を旅行しましたが、大津事件に遭遇します。ロシアが攻め込んでくると狂信していた津田巡査にサーベルでケガを負わされたのです。日本側は顔面蒼白になりましたが、その後のフォローを必死に行ったため、大事にならずにすみました。後の日露戦争ではこの事件が持ち出されましたが、本人はあまり気にしていなかったようです。
当時すでに元バレリーナのマルチダ・クシェシンスカヤを愛人としていたニコライ2世でしたが、心に決めた女性がいました。ヘッセン大公女アリックスです。彼女はヴィクトリア女王のもとで養育されており、幼い頃から知り合いでした。しかし、母マリヤは反対します。アリックスはヴィクトリア女王の血友病の遺伝を引き継いでいる可能性が高かったからです。結局父が病に倒れ、なんとか結婚を認めてもらいます。
父の葬儀後、念願のアリックスとの結婚式を挙行します。彼女はアレクサンドラ・フョードロヴナとなりました。
新皇后アレクサンドラはロシア語やフランス語が得意ではなく、また内向的な性格で宮廷に馴染めませんでした。結局社交界での役割は前皇后マリヤが担うこととなり、アレクサンドラは人々から人気を得ることはできませんでした。
アレクサンドラは子どもを次々と出産しますが、オリガ・タチアナ・マリア・アナスタシアとすべて女子でした。世継ぎを産まなければならないというプレッシャーに追い込まれていきます。
一方で、ニコライ2世も日露戦争で日本に苦しめられます。日本海海戦では無敵と思われていたバルチック艦隊が壊滅させられ、世界に衝撃を与えます。
そんな中19004年待望の男子アレクセイが誕生します。やっと恵まれた世継ぎでしたが、生後すぐ血友病であることが発覚します。自身の遺伝の影響であるとわかっていたアレクサンドラは必死にアレクセイを生き延びさせようとします。母の必死の看病も虚しく、1907年にアレクセイは重篤な状態となります。アレクサンドラは、友人から紹介されていたグレゴリー・ラス・プーチンに縋ります。
グレゴリー・ラス・プーチンはシベリア生まれの修行僧でした。シベリア訛りの粗野で女好きでしたが、奇跡の治療を行い、皇帝夫妻の身辺の者にも信頼されていました。
そんな彼がアレクセイの発作を落ち着かせてしまうのです。藁にもすがる思いだったアレクサンドラは彼に絶大な信頼を置くようになります。そのうち、アレクサンドラの影響で、ニコライ2世も彼を信用するようになります。ラス・プーチンも皇帝夫妻を『パパ、ママ』と呼び、我が物顔で出入りするようになります。あまりにも親密な関係から、アレクサンドラと愛人関係で、娘たちとも関係を持っているという噂が流れました。
そんなとき、第一次世界大戦が勃発します。ニコライ2世は皇后を摂政に任じ、アレクセイとともに前線の司令部へ向かいます。アレクサンドラ皇后は敵国のドイツ出身であり、彼女の政治的判断もラス・プーチンに影響されていると考えられていました。状況が悪化するなかで、諸悪の根源であるラス・プーチンを暗殺しなければならないと決意したグループがいました。大貴族のユスポフと皇族のドミトリー大公でした。
ユスポフの妻は美人で知られており、それにつられてかラス・プーチンは彼の招待に応じます。ユスポフは致死量の青酸カリ入りのワインや菓子でもてなします。しかし、それらを食してもラス・プーチンは平気でした。恐れをなしたユスポフは共犯者を呼び、ラス・プーチンに発砲、集団で暴行しました。さすがに死んだだろうと考えた暗殺者たちは彼を簀巻きにして川に捨てました。
翌日遺体が発見されました。よく『肺から川の水が発見されたので、ラス・プーチンは溺死した』と言われますが、記録が残っていないのでわかりません。皇后アレクサンドラをはじめ皇帝一家は嘆き悲しみました。しかし、大貴族や皇族が関わっていたため、大掛かりな捜査は行えず、暗殺者たちは自領への追放や国外退去処分をくだされています。
ロシア革命、そして暗殺
絶大な信頼を寄せていたラス・プーチンが亡くなり、意気消沈するニコライ2世でしたが、それ以上に国内状況に悩まされていました。
すべての始まりは日露戦争中の血の日曜日事件でした。日露戦争に反対する静かなデモに参加した無辜の民たちを、皇帝軍が射殺したのです。この事件は首相ストルイピンの弾圧によってなんとか沈静化させますが、このストルイピンも暗殺されてしまいます。専制君主思想に執着したニコライ2世でしたが、仕方なく国会の開設をみとめます。国会では皇帝権力を立憲君主制のものとしようとする動きが始まります。
そんな中で第一次世界大戦が始まり、国は挙国一致で勝利しようとする運動を開始します。しかし、慢性的な食糧不足に悩まされていた主婦たちが食糧をもとめたデモで状況は一変します。元々戦争に嫌気が差していた国民たちは、戦争を継続しようとするニコライ2世の退位を求め、皇后と皇女たちを監禁します。事態を聞きつけたニコライ2世は息子アレクセイ皇太子とともに帰還。臨時政府は幼いアレクセイを擁立しようとしますが、血友病の持病を持つ息子を一人にすることはできないと、ニコライ2世が息子の皇位継承権を放棄させます。ニコライ2世の弟ミハイルに皇位が回ってきましたが、臨時政府としては幼君とできないミハイルは不要でした。臨時政府はミハイルに身辺警護すら保証できないと迫って、退位させます。ミハイルのたった1日の帝位によって、300年以上続いたロマノフ朝は終わりを告げます。
一人民となったはずのニコライ2世一家でしたが、そのままシベリアに流刑となります。半年後エカチェリンブルグに戻されます。元皇帝夫妻は子どもたちの亡命が認められたのかと思いましたが、一家暗殺へのカウントダウンの始まりでした。国内では共産主義のソヴィエト政府が実権を握り、元皇帝派や自由主義者たちが必死に抵抗しており、赤軍と白軍の内戦状態となっていました。この状況下で元皇帝一族を生かしておくわけにはいかなくなったのです。
1918年7月17日未明、新しい幽閉場所に移すと言われ、半地下室に元皇帝一族とその従者たちが集められました。しばらくすると、兵士たちが乗り込み、ニコライ2世一家を処刑すると宣言、一斉に発砲しました。ニコライとアレクサンドラは即死しましたが、子どもたちはなかなか死にませんでした。母の言いつけで固いコルセットをしていて、弾除けになったのです。死なない子どもたちに恐れをなしながら、銃床で頭を殴ったり、サーベルで刺殺しました。遺体からは衣服が剥ぎ取られ、顔を潰された上で遺棄されました。場所を一箇所にしないように、アレクセイと娘の一人(マリアかアナスタシアか証言が別れている)は別の穴に捨てられました。
レーニン政府は皇帝一家が全員処刑されたと知りながら、処刑されたのは元皇帝と元皇太子のみで、元皇后と娘たちは生きていると発表しました。すでにドイツと停戦交渉をしており、ドイツ系のアレクサンドラらを処刑することは憚られたのです。
遺体が全員分見つかったのはソヴィエト崩壊後であり、レーニン政府の虚偽の発表もあり、多くの僭称者たちを生み出すこととなります。
革命発生直後、クリミアから亡命したニコライ2世の母マリヤは息子一家の暗殺を認めませんでした。姉アレクサンドラのもとに身を寄せますが、いづらくなり故郷デンマークで余生を過ごします。孫娘を自称するアンナ・アンダーソンらとの面会を拒み、1928年亡くなりました。享年80歳。
アンナ・アンダーソン(1896〜1984)
僭称者のなかでも映画『追想』のモデルとなったアンナ・アンダーソンについて取り上げます。
アンナが発見されたのは1920年のベルリンです。自殺未遂者として精神病院に収監されましたが、周りがアナスタシアに似ていると騒ぎになり、本人も思い込みます。
たしかにアナスタシアと似ている点もあり、一部の元大貴族らからも賛意を得ました。両親が莫大な遺産を残しているはずだと裁判を起こしますが、あえなくやぶれています。
彼女を徹底的に調べたのが、マウントバッテン公でした。少年時代アナスタシアの姉マリアに恋をしていた彼とすれば、許せなかったのでしょう。彼は調べ上げ、アンナ・アンダーソンはポーランド女工フランツィスカだと告発します。
一方で、アンナはアメリカに渡り、支援者の寄付で悠々自適な生活を送ります。アメリカ人男性と結婚、1984年亡くなりました。
死後、彼女の腸の一部が残され、発見された皇帝一家の遺体とDNA検査が行われました。当然ながら皇帝一家のDNAとは一致せず、ポーランド人女工フランチェスカの甥とは親族関係が証明されました。よって、アンナ・アンダーソンはポーランド人女工フランチェスカと同一人物と特定されました。
しかし、彼女の主張はイングリット・バーグマン主演の『追想』に取り上げられ、現在までさまざまな小説で描かれています。
ニコライ2世とロシア革命、まとめ終わりました。エピソードを見ると普通の子煩悩の父親という感じで、皇帝として生まれてしまった悲劇を感じます。ニコライ2世一家の遺体発見時には大津事件の遺留品も提出されましたが、DNAが取り出せず、アレクサンドラの親戚であるエリザベス女王の夫エディンバラ公らのDNAが使用されたそうです。アレクセイと一緒に埋められた娘から血友病の保因が認められましたが、マリアかアナスタシアか説が別れているようです。ロシアがアナスタシアとして認定しているので、本稿ではアナスタシアとして取り上げました。
本稿でロマノフ朝の歴史については終わりですが、次回は私的に好きなロマノフ朝のファッションと芸術についてまとめます!完全に私の趣味です!!
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