《日本史》道長のこどもたち
こんばんは。
Ayaです。
先週、大河ドラマ『光の君へ』が始まりましたね!今週からは本役の吉高由里子さん・柄本佑さんになるということで楽しみです。
なので、今回は道長のこどもたちについてまとめようと思います。
道長にはふたりの妻がいました。源倫子(演:黒木華さん)と源明子(演:瀧内公美さん)です。それぞれ邸宅から、鷹司殿、高松殿と呼ばれていました。
源倫子は左大臣源雅信の娘で、上昇意識の高い道長の父・兼家を牽制するための政略結婚だったとも言われています。しかし、夫婦仲は円満で、二男四女を得ました。
(1)彰子(一条天皇后)
言わずと知れた紫式部の主人ですね。彼女の殿舎が藤壺だったため、源氏物語のヒロインも藤壺の宮としたと言われています。
12歳で入内し、翌年には中宮となって、皇后定子と並ぶこととなります。皇后定子が亡くなると、その息子敦康親王を引き取り、養育していました。愛妃を亡くした一条天皇とは次第に夫婦らしい愛情を育み、入内から8年後、念願の皇子・敦成親王(後一条天皇)、その翌年には敦良親王(後朱雀天皇)を出産します。
一条天皇が発病すると、道長は敦成親王を立太子させようとしますが、一条天皇は敦康親王を立太子させたがっていました。藤原行成の諫言で結局敦成親王を立太子させましたが、この決定に何より反対したのが彰子でした。夫の思いを汲んでいたからでした。その翌年には一条天皇が崩御し、彰子は上東門院という院号を授かります。
父の死後、弟たち(頼通と教通)が対立するようになると、その仲立ちをし、摂関政治を支えました。
しかし、息子ふたり(後一条天皇・後朱雀天皇)、孫ふたり(後冷泉天皇・後三条天皇)にも先だれてしまいました。頼通の死の8ヶ月後、崩御。享年87歳。この翌年教通も薨去し、摂関政治は終わりを迎えます。
(2)頼通
具平親王の娘・隆子女王と結婚し、仲睦まじかったものの、こどもには恵まれていませんでした。この点に注目した三条天皇は娘と結婚させ懐柔しようとしますが、『妻が悲しむ』と断ってしまいました。
道長が出家した26歳の年に家督を譲られますが、実権は父が握ったままで、公卿の前で叱責されることもあったようです。
道長が薨去するとやっと実権を握れたものの、前九年の役が起こるなど多難でした。また養女(敦康親王の娘、母隆子の妹)・嫄子が後朱雀天皇、長女寛子が後冷泉天皇にそれぞれ入内しますが、男子が生まれず、摂関政治が行き詰まります。
一族と疎遠な後三条天皇が即位すると、対立しますが、その崩御には賢帝の死を嘆いたといわれます。1074年薨去、享年83歳。政治的には父を越えられなかった彼ですが、宇治に平等院を設立しました。
(3)妍子(三条天皇后)
姉妹のなかでも一番の美貌で、派手好きで知られていました。すでに姉彰子が親王二人を出産していましたが、第二の布石として三条天皇に入内します。しかし、三条天皇のもとにはすでに娍子(藤原済時の娘)が入内していて、たくさんの子女を儲けていました。入内してすぐ中宮に冊立されますが、三条天皇の強い意向で娍子も皇后とされます。このことから、父道長と三条天皇の対立は始まったと言われています。
妍子も出産しますが禎子内親王だったため、道長は完全に三条天皇との関係修復を諦め、退位まで追い詰めました。
望まれていなかった禎子内親王でしたが、のちに後朱雀天皇に入内します。その半年後、妍子は薨去します。享年33歳。道長は末娘嬉子をなくしたばかりで、「老いた父母を置いてどこへ行かれるのか、私達も供をさせてくれ」と泣いて取り縋ったと伝えられています。母の死後、禎子内親王は尊仁親王(後三条天皇)を出産します。摂関家から離れた彼が即位したことで、摂関政治から院政へ切り替わっていくことになります。
(4)教通
兄と同じく嫡子扱いを受けていて順調に出世を遂げていました。兄への従順な態度はあまりにも度が過ぎていて卑屈だったらしく、異母兄・能信が「大臣ともあろう者がひざまづいて礼をするなど聞いたこともない」と批判しています。しかし、この従順な態度は、後一条天皇に生子を入内させようとしたことから変わります。後一条天皇にはすでに妹の威子が入内していたため、姉と兄から反対されます。このときは諦めた教通でしたが、後朱雀天皇が即位すると、兄の反対を押して強行します。後冷泉天皇には兄より先んじて歓子を入内させていましたが、生子・歓子ともに男子に恵まれませんでした。
姉の仲立ちで兄から関白を譲られましたが、兄の子・師実にに継がせる約束でしたがなかなか実行せず、対立を深めていました。
兄・姉の翌年に薨去。享年80歳。
結局関白位も師実に取り戻され、彼の血筋は衰退しました。
(5)威子(後一条天皇后)
9歳も歳下で、しかも甥である後一条天皇に入内します。この入内に彼女自身も恥ずかしがったといわれていますが、彼女の立后の宴で道長が詠んだのが、有名な『この世をば』の歌です。
威子は二人の内親王を出産しましたが、とうとう男子には恵まれませんでした。後一条天皇の崩御の半年後亡くなりました。享年36。娘たちもそろぞれ後冷泉天皇、後三条天皇に入内しますが、こどもに恵まれませんでした。
(6)嬉子(後冷泉天皇母)
長姉彰子が入内してから生まれた妹で、姉による誕生祝いが盛大に行われました。長兄の養女として、まだ皇太弟だった敦良親王(後朱雀天皇)に入内します。1025年皇子(のちの後冷泉天皇)を出産しましたが、その2日後に急死。あまりのことに、父道長も彼女の死を受け入れられず、禁止されている蘇生の儀式を行っています。彼女は摂関家の娘で最後に男子に恵まれた女性であり、彼女の死によって摂関家の凋落がはじまるのです。
一方、明子は左大臣源高明の娘でしたが、彼女が幼いときに父が失脚した上になくなってしまいました。道長の姉・詮子のもとに身を寄せていたときに、道長と結婚したと言われています。そのため、道長の正妻は倫子とされますが、彼女との間にも四男二女を儲けています。(番号はわかりやすいように倫子との子とつなげています)
(7)頼宗
頼通と年齢は変わらないものの、教通にも追い抜かれ、昇進が遅れていました。
藤原伊周の娘と結婚、娘ふたりはそれぞれ後朱雀天皇と後三条天皇の女御となりました。
最終的には右大臣まで昇進し、73歳で薨去。
歌人として知られ、大弐三位(紫式部の娘)や小式部内侍(和泉式部の娘)を愛人にしていました。また極度の近眼だったらしく、内裏内でつまづき、嘲笑されています。
(8)顕信
元服して右馬頭に任官していましたが、突然出家してしまいます。三条天皇から彼の蔵人頭就任を打診された父道長が断ってしまったのが、原因とされています。突然の出家に父母は嘆き悲しみました。出家から15年後亡くなりました。享年33歳。
(9)能信
同母兄頼宗は頼通・教通兄弟と協調し昇進を目指していましたが、能信は拒否。公然と頼通と口論して、父道長から勘当されています。
冷遇されていた禎子内親王の後見をつとめており、その子尊仁親王(後三条天皇)の立太子に成功します。しかし、頼通や教通の娘たちが後冷泉天皇の皇子をうめば尊仁親王は廃太子されると噂され、親王の妃がなかなか決まりませんでした。能信はやむをえず、妻の姪茂子を養女とし入内させます。茂子が産んだのが貞仁親王(白河天皇)で、白河天皇は後々まで彼を『大夫殿』と慕っていました。また、彼の後宮政策は摂関政治を衰退させ、かわりに妻の実家・閑院流が繁栄し、待賢門院璋子(鳥羽天皇后)などを輩出することとなります。
本人は後三条天皇の即位も見ることなく、権大納言のまま薨去。享年71歳。
先述の通り勝気な性格で、彼の下人たちはよく暴力沙汰を起こしています。一方で歌人として知られ、一部の学者からは『大鏡』の作者とも目されています。
(10)寛子
三条天皇の皇子で、父道長の圧力によって皇太子を辞した敦明親王(小一条院)と結婚。この結婚は顕光の娘・延子との離婚を招いたため、顕光親子の恨みをかいました。一男一女に恵まれましたが、27歳で薨去。臨終の床には顕光親子の怨霊が現れたと言われています。
(11)尊子
道長の娘たちで、唯一皇族ではない源師房と結婚。この結婚に頼宗や能信は不満でしたが、師房は頼通の猶子で、ふたりの子どもたちも立身出世していきます。夫の死後出家。その後は不明。
(12)長家
明子所生ですが、幼いときから倫子の猶子となりました。行成の娘と結婚し、権大納言で薨去。享年60。歌人として知られ、藤原俊成・定家父子の先祖にあたります。
以上、道長の子どもたちでした。
こうしてみると、スペイン・ハプスブルグ家ほどではありませんが、頼通・教通の娘たちがこどもに恵まれなかったのは、近親婚のせいでは…??なんて思ってしまいます。
明子の子どもたちは出てくるか微妙ですが、どんな配役なのか楽しみに光の君を見ようと思います。
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