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《世界史》ピューリタン革命

こんにちは。
Ayaです。
今日からステュアート朝について4回でまとめたいと思います。
1603年母のライバルだったエリザベス1世の崩御で、イングランド王に迎えられたジェームズ1世。しかし、この王朝は2回の革命を経験し、1714年アン女王の崩御で終わってしまいます。初回の今日はジェームズ1世の即位から、ピューリタン革命までまとめます。

ジェームズ1世(1566〜1625)

それまでスコットランド王ジェームズ6世でしたが、1603年イングランド王として即位するため、ロンドンに出発します。1617年に一度だけスコットランドに帰省しますが、それ以外はイングランドで過ごします。
彼の即位以後1707年にグレートブリテン王国が成立するまで、イングランドとスコットランドは同君連合という状態になります。同じ君主を戴いていますが、別々の議会と行政府を持つということです。
さて、ジェームズがロンドンに到着すると、人々は熱狂的に歓迎します。人気の高かったエリザベス1世も晩年は経済政策に失敗し、人気が低くなっていたからでした。それは貴族たちとしても一緒でした。重苦しい処女王の宮廷よりも、王妃や王子のいる健全な宮廷(実体は粗野な王、遊び好きな王妃、我が物顔で出入りする王の同性愛の寵臣だったわけですが)のほうがいいわけです。
その上、ジェームズは粗野な見かけによらず、幼い頃から苦労していたためか、賢明な判断をします。エリザベス1世の宗教政策を引き継ぎ、中立を保ったのです(本人は表向きプロテスタントでしたが、母や妻の影響で心情的にはカトリックに近かったといわれています)。
その一方で、当時登場し始めた王権神授説を信奉し、次代のチャールズ1世に影響を与えます。1625年崩御、享年68歳でした。

ジェームズ1世
スコットランド王としてはジェームズ6世。『最も賢明にして愚かな王』というあだ名がある。粗野な外見に反してインテリで本も執筆していた。父の子ではなく、母の愛人リッチオの子ではと噂されていた。

チャールズ1世(1600〜1649)

チャールズ1世は1600年スコットランド王ジェームズ6世の次男として生まれます。1603年には両親とともにロンドンに移り、1612年に兄の死をうけて王太子となります。
父から王権神授説を教わって育ちますが、長じると父よりも強硬な信奉者となります。
1625年に父の崩御にともない、即位します(チャールズ1世)。同年にはフランス王アンリ4世王女ヘンリエッタ・マリアと結婚します。この結婚はヘンリエッタはカトリックから改宗せず、しかも自分用に宮廷内に礼拝堂を持てるというもので、人々の反感を買いました。
宗派問題だけでなく、先代からの財政問題もあり、チャールズは議会を招集します。しかし、日頃の専制的な統治に反発していた議会は王を批判、これに激怒したチャールズは議会を解散します。ですが、また戦費の調達が必要になり議会を招集、また反発され解散。こんなことを繰り返すうちに民心は離れ、反乱軍が組織されます。チャールズは必死に抵抗しますが、反乱軍に敗れ逮捕。1649年処刑されます。享年49歳。

チャールズ1世の処刑
それまで戦いで戦死した王はいたが、処刑されたのは前代未聞だった。人々は天罰が下るのではと恐れた。

この一連の動きをピューリタン革命と言います。革命の担い手が厳格なプロテスタントのピューリタンが多かったからです。
チャールズ1世の刑死後、オリバー・クロムウェルという人物が護国卿に就任、亡くなるまで独裁をひきます。これは彼がカリスマだったからできたことで、1658年にクロムウェルが病死すると、彼の息子では統治できず、王政復古によりチャールズ1世の息子・チャールズ2世が迎え入れられます。
非業の死を遂げたチャールズ1世ですが、彼は審美眼に優れ、ルーベンスの弟子だったヴァン=ダイクを重用しました。彼はピューリタン革命前の1641年に亡くなりますが、チャールズ1世家族の肖像を傑作として残しています。

『英国王チャールズ1世の肖像』
『チャールズ1世妃ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン』
ヴァン=ダイク自画像
チャールズ1世に気に入られたヴァン=ダイクはイギリスに移住し、王妃の侍女と結婚した。市民階級出身だが、貴族のように振る舞っていたといわれる。1641年死去。

ピューリタン革命までまとめましたので、今回はここまでとします。王政復古によって戻ってきたチャールズの息子たちですが、もう一波乱あります。

そして今日でnoteを開始して1ヶ月です!思ったより継続できててびっくり!これから優しく見守ってください笑


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