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《世界史》ケネディ大統領

こんにちは。
Ayaです。
アメリカ史第4回はケネディ大統領についてです。彼は任期中非業の死をとげますが、その在任中はキューバ危機や公民権運動など波瀾万丈でした。今日は彼の人生についてとりあげます。

ジョン・F・ケネディ(1917〜1963)

ジョン・F・ケネディは1917年アメリカ合衆国マサチューセッツ州のジョゼフ・P・ケネディ・シニアの次男に生まれます。ケネディ家はアイルランド系移民の資産家として知られており、のちに彼の弟のロバート、エドワードも政治家を目指すようになります。幼少期は兄の影に隠れた存在で、成績も振るわず、親のコネでハーバード大学に進学しました。しかし、大学在学中に書いた論文が評価され出版するなどの活躍もしています。
1940年ハーバード大学卒業後は海軍に入隊しますが、有名な資産家であった親への配慮で情報局など後方部隊に配属されます。当時交際していた女性がドイツのスパイの嫌疑をかけられたため、親の依頼で魚雷艇の部隊に移動させられます。魚雷艇では日本の攻撃を受けて辛くも生還し、父親のロビー活動のおかげで海軍・海兵隊勲章を得ます。この時の怪我もあり、名誉除隊して本国に帰還します。
ケネディの父は息子を政界入りさせたいという野望がありました。兄が事故死したため、ケネディがその役割を果たすことになります。ケネディの父は莫大な選挙資金を用意し、また母方の祖父が地元では知られた政治家だったこともあり、1946年下院議員に当選、1952年には上院議員に当選しました。
翌年にはジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚しました。愛称ジャッキーで知られる彼女は美貌と知性で有名でしたが、ケネディは結婚後も数多くの女性たちと関係を結ぶこととなります。

ケネディの妻 ジャクリーン
愛称ジャッキー。ケネディの度重なる浮気に悩ませていたが、ファーストレディーとして人気を得る。


病気療養中に執筆した『勇気ある人々』を1956年出版するとベストセラーとなり、ピューリッツァ賞を受賞しました。しかし、この『勇気ある人々』はゴーストライターの存在が噂されましたし、ピューリッツァ賞の審査でも最終選考に突然現れているので、きっといつもの父親のコネでしょう。同年民主党全国大会で演説し、全国的な知名度を得ます。
1960年いつもの父の援助や妹の夫のコネで得た芸能界の応援を受け、民主党の予備選挙に出馬します。若さを心配する声もありましたが、ケネディ自ら論破し、民主党大統領候補に当選します。共和党大統領候補のニクソンとは初のテレビ論戦番組に出演しましたが、白黒テレビを利用して濃い色の背広を着用するなどプロデュース力で勝利しました。結局本戦でもケネディが勝利し、第35代大統領に就任します。史上最年少でさらに初のカトリック信者の大統領でした。父やケネディ家の執念が達成されたのです。しかし、就任早々国存亡の危機に遭遇します。

キューバ危機(1962)

カリブ海に浮かぶ小国キューバはアメリカの援助を受けたバチスタ政権が長年支配していました。その悪逆な統治に反発したカストロとゲバラをリーダーとする反政府運動は密かに革命の好機を狙っていました。1953年キューバ革命を起こし、カストロらは政権を握ります。再びのアメリカからの介入を防ぐため、カストロはカリブ地方初の共産主義政権を標榜しました。フルキショフのソ連側もカストロ政権を支援する動きを見せたので、アメリカは下手に手を出せず、カストロ政権の動きを警戒していたのです。

ゲバラとカストロ
ゲバラはカストロと次第に対立し、キューバを出国南米各地で革命運動を広めたが、アルゼンチンで暗殺された。

ケネディ政権が成立してしばらく経ったころ、ソ連に潜入させているスパイから驚きの密告が届きます。キューバに運び込まれているのは、核ミサイルではないのかというのです。
密告を受けた政府は偵察機をキューバ上空に飛ばすと、たしかに核ミサイルがあり、しかもアメリカの方角に向けられていました。射程範囲にすべての主要都市が入るアメリカ側は恐怖に震え上がり、緊急会議が開かれました。強硬な軍部からは先制攻撃の声も上がりましたが、その場合北半球がすべて広島・長崎以上の被害が及ぶと試算されました。さすがにケネディは躊躇し、テレビでソ連のフルキショフへ対話を呼びかけました。テレビを見た国民はパニックになり買い占めや核シェルターに避難するものも現れました。結局、フルキショフが折れ、キューバに介入しないという条件で、核ミサイルを撤去しました。
このアメリカ史上最大の危機を乗り越えたケネディの人気は絶大なものとなりました。さらにケネディは黒人問題の解決に乗り出します。

公民権運動(1950s〜1960s)

大統領選挙序盤、南部の白人層の支持を狙ったケネディ陣営は公民権運動家マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師(1929〜1968)を『共産主義者』と攻撃したので、黒人層からの批判を浴びることとなりました。
リンカーンの奴隷解放宣言で奴隷の身分から解放された黒人たちでしたが、未だに南部中心に差別が横行していました。公共バスの座席や飲食店まで白人用と有色人種用に分けられていたのです。そんなとき、ある事件が起こります。モンゴメリーのバスで白人優先座席に座っていた黒人女性が、白人が乗ってきても移動しなかったのです。いわゆる『モンゴメリー・バス・ボイコット事件』です。この黒人女性は警察に逮捕されてしまいましたが、彼女の行動に勇気づけられた黒人たちが次々に抗議活動を開始しました。このなかにマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師(1929〜1968)もいました。
キング牧師は1929年アメリカ合衆国ジョージア州で生まれました。幼い頃から優秀でしたが、目指した大学は白人専用だったため、黒人も通える大学に進学しました。大学卒業後は牧師として活動していましたが、そのなかでこの活動に参加するようになり、次第に運動のリーダーとなりました。彼はインドのガンディーの『非暴力主義』に感銘を受け、自分達の活動に導入していきます。運動はどんどん広がり、1963年ワシントンへ行進し、有名な『I Have A Dream』演説を行います。
勢いを見せるキング牧師らの運動を蔑ろにすることはできず、ケネディは公民権法の改正をキング牧師に約束します。過激派のマルコムXは相手にしませんでしたが、キング牧師はケネディの案を受け入れます。なんとか黒人との対話の糸口を見つけたケネディは、南部のダラスへ向かいます。

キング牧師とマルコムX
白人との融和・共存を求めたキング牧師に対し、マルコムXは黒人のみの国の成立を求めており、活動は分裂した。

ケネディ暗殺(1963)とその後

ケネディは1963年11月22日、ジャクリーンを伴ってテキサス州ダラスに到着しました。キューバ危機をしのいだこと、キング牧師との対話を強調するための遊説でした。二人は歓迎され、ダラス市内をオープンカーでテキサス州知事夫妻とめぐることとなります。
人々の大歓声の中、12時半ごろ教科書倉庫ビル前をオープンカーが左折しました。その瞬間、銃声が鳴り響きました。狙撃の瞬間でした。

狙撃の瞬間
ケネディの前方に座っていたテキサス州知事も重傷を負った。

ケネディはすぐ病院に運ばれましたが、頭部と喉に被弾しており手の施しようがなく、死亡が確認されました。享年46歳。
ダラス市警はすぐ教科書車庫ビルを捜索し、姿を消していた従業員のリー・ハーヴェイ・オズワルドを指名手配しました。

リー・ハーヴェイ・オズワルド
海兵隊に所属していて、ソ連へ亡命、帰国という疑惑の人生を歩んでいた。

オズワルドはすぐ逮捕されましたが、「自分は嵌められた」と供述していました。その上、2日後には警察署内を護送中、刺殺されてしまいました。犯人は「ジャクリーンに同情した」と供述しましたが、どう考えてもオズワルドへの口封じでしょう。オズワルドはソ連に亡命した過去がありますが、あからさますぎるので、ソ連と繋がりがあったから利用されたと考えられます。テキサス州はジョンソン副大統領の地元だったので、関与が疑われました。その上、ケネディのキューバ危機への対応が生ぬるかったと不満をいだいたCIAの関与も考えられます。ウォーレン報告書による公式発表ではオズワルドの単独犯行とされましたが、2017年には当時のトランプ大統領が未公開文書を公開すると宣言、取り下げるという事態も起こっており、未だ謎の多い事件です。
ケネディとの約束が果たされるか心配だったキング牧師ですが、その後任のジョンソン大統領によって公民権法の改正は実現しました。キング牧師は一旦活動から離れますが、ベトナム戦争が始まると黒人が真っ先に徴兵されたことに反発し、活動を再開させます。ベトナム反戦運動と協力していましたが、1968年テネシー州メンフィスで白人至上主義者に暗殺されました。享年39歳。

キング牧師の暗殺
怒りに震えた黒人たちは全米各地で暴動を起こした。



ケネディ家の悲劇も続きます。ケネディの遺志を継いで1968年の大統領選挙に出馬した弟のロバート・ケネディも民主党大統領候補に選出された途端、暗殺されました。末弟エドワードは1969年大事故から生還を遂げますが、同乗していたのが不倫相手と発覚し、人気が凋落、生涯大統領選挙には出馬できませんでした(その後も上院議員を続け、オバマ大統領を支援、2009年死去)。
ケネディとジャクリーンの息子ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアも1999年事故死してしまいます。
ケネディ暗殺後、血まみれのスーツでジョンソン副大統領の大統領就任式に出席し、人々の同情を買ったジャクリーン。しかしその後ギリシャの大富豪オアシス氏と再婚し、人々から非難を浴びました。オアシス氏の死後は継娘と遺産相続争いを繰り広げ、解決するとアメリカに戻ります。ケネディと出会う前にしていた新聞記者に戻り引退、1994年娘のキャロライン一家に看取られながら亡くなりました。享年64歳。現在夫のケネディのとなりで眠っています。

ケネディ夫妻の墓

ケネディとジャクリーンの娘キャロライン・ブーヴィエ・ケネディは2013年から2017年まで駐日大使を全うし、現在は駐オーストラリア大使を務めています。

『ケネディ大統領』、まとめ終わりました。久しぶりの長文投稿!!当時ケネディ家は『アメリカの王室』と言われていたんだとか。しかし、ケネディ兄弟だけでなく、妹の一人も精神病を患うなど、不幸が多かったようです‥。ケネディ兄弟と関係を結んだマリリン・モンローについてはいつか取り上げるつもりです!!
次回は『代理戦争』を取り上げるつもりです!!

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