あの時、私は②
夜中の緊急地震速報、怖かったですね。
皆さん、心のケアは大丈夫ですか?
さて、前回の続き311のお話をさせて頂きます。
本震の揺れが収まるとすぐに情報収集に追われました。
震度の情報を集めたり市町村の自治体にひたすら電話をかけたり、取材先の安否確認をしたりと休む間はありませんでした。
度重なる余震で船酔いのような感覚になってはアドレナリンで乗り切るという状況でした。
記者が沿岸部の被災地へ出ていたため、
アナウンサーも取材に加わっていました。
私もカメラクルーと一緒に避難所になっていた体育館へ取材に行きました。
すると避難されている方からの質問攻めになりました。
「東北新幹線ってどうなってるの?」
「いつ電気回復するの?」
「電話が繋がらないけどどうすればいいの?」
何一つ答えられませんでした。
「テレビ=情報を持ってる」
という皆さんの期待に、有事の時なにも応えられなかった。
それなのにただ、マイクを向けている。
無力で、悔しくて、悲しくて。
心の中に大きなしこりが残りました。
一睡もすることなく迎えた翌日、
災害対策本部の取材に行っていた先輩から悲鳴のような無線が入りました。
「爆発しました!」
興奮が声から伝わってきて、ただ事ではない事が瞬時に分かりました。
テレビ画面を見ると、戦争の資料映像で見たようなキノコ雲が映し出されています。
「私、死ぬんだ…」
声を荒げるデスク、頭を抱えるデスク、涙を流しながらコピーを取るスタッフ。
あたり一面がスローモーションで見えました。
私も笑いながら、目の前の作業に没頭しました。
受け止めたくない真実に目を背けるように。
携帯電話の着信が鳴り止みませんでした。
家族、友人、疎遠になっていた親戚からも電話がかかってきました。
「もう、福島を離れて実家に帰りなさい」
私は県外出身者だったため、親戚から何度も諭されました。
その度に心のしこりが疼くのが分かりました。
「私はここで、何も仕事をしていない
このままでは一生、後悔する」
亡くなった母の教えに
「最後の瞬間まで人のために仕事をしなさい」
というものがありました。
「今、母だったらどんな決断をするだろう」
涙を拭いて導いた答えは
「福島に残ること」でした。
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