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誰も傷つかないことばは存在しない

正義とは、なんだろう。

辞書で“正義”を引いてみたら、「道理にかなっていて、正しいこと」とあった。「道理」の意味は、「世間で正しいと認めた、行いの筋道。そうなるのが正しい、という理屈」。

それならば、法律以外における、「道理にかなっていて、正しいこと」は、誰が決めるのだろう。
日常の私たちの選択が正しく、道理にかなっているのかどうかは、誰が決めるのだろう。きっと誰も、決められない。共感と賛成と応援と、ほんのすこし信じてみることはできても、ジャッジはできない。

自分が「正しく道理にかなっていると思うこと」を、誰かにも押し付けてはいないだろうか。

自分にとっての正義は、他の誰かにとっての不義になることもある。
良かれと思って振り翳した正義が、誰かを傷つけることもある。

語気の強さやインパクトある表現は、良くも悪くも注目を浴びやすく、人を惹きつける。電車内や街中で強いコピーやポスターをみつけると、私も思わず目にとめる。
ただ、同じ強さをもったことばでも、そこに思いやりが内包されているかどうかは、読めばわかってしまう。伝わる相手のことを想像できない言葉は、刃にもなる。

以前Instagramで時折やりとりをする方から、アナウンサーの古舘伊知郎さんが報道ステーションを卒業されたときの言葉を、教えていただいた。

「(テレビ局によせられるお褒めの言葉や徹底的な罵倒に対し) 考えてみたら、私も電波という公器を使って、良かれとはいえ、色々なことをしゃべらせていただいている。絶対、どこかで誰かが傷ついているんですよね。それは、因果が巡って、自分もまた傷つけられて当然だと、だんだん素直に思えるようになりました(一部抜粋)」

(全文はこちら

sankei.com/entertainments/news/160401/ent1604010002-n1.html

自分の言葉で、必ず誰かが傷つく可能性があるということを、教えてもらった。ジェンダーも立場も環境もそれぞれみんな違うのだから、誰も傷つかない完璧なことばや文章なんて、存在しないのだと。

だからこそ私は、できるならば聞き手が少しでもあたたかく、前向きになれることばを自分なりに探したいし、そういう伝え方をされているひとの話が聞きたい。

AはダメでBが良い、Aを否定しBを賞賛といった表現は、何かを紹介するときの手法のひとつかもしれないけれど、あまり好きになれない。自分の好きなものや自社品を紹介される場合も然り。たとえ有り難くもお褒めのことばをいただけたとしても、同時に他の何かが否定されているならば、手放しでは喜べない。


親しい友人や家族など近しい人との会話の中でなら幾らでも自由に語れば良いと思うが、不特定多数に発信する場合は自分自身もとくに気をつけたい。表現に責任をもって、意識して発したい。


誰も傷つかないことばなんて存在しないのならば、

敢えて誰かに刃を向けることはせずに、

せめて少しでも穏やかで、あたたかな、ことばを選べる人でいたい。

そういう世界を信じていたい。


今日は深夜に、色々と思うことがあって寝付けず、

これが最初の文章でいいのかは別として、思うままに書きました。

記念すべき、初note。





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