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緘黙症だった私へ

幼少期に遡る。

私は幼稚園入学時から小学校5年生に上がる前までの7年間、学校という場でまったく喋らない子どもだった。

そのきっかけがなんだったかはもはや覚えていないのだが、
当時団地に住んでいた私は隣の棟に住む「カオリちゃん」にいつも気圧されながら自分の言いたいことも言えずに一緒に遊んでいた記憶があるし(幼稚園のマラソン大会で、私がカオリちゃんを追い抜こうとした時に「抜かんでよ!(博多弁)」と強く腕を引っ張られて固まったことはいまだに覚えている)
そういった友人関係が影響していたのか、それ以前にお世辞にも円満だったとは言えない家庭環境の影響なのか、それとも私自身が元来もつ気質ゆえなのか、家系的?遺伝的なものなのか…。こういった症状の要因は星座のようにいくつも散らばっていて、とても特定できるような事柄ではないように思う。

以前、京都で「ホホホ座」という書店を営む山下賢二さんの著書「ガケ書房の頃」を読んだことがある。
幼稚園の入園日、初めてみんなの前で自己紹介を促されたときに、山下少年は口から言葉が出なかった。そのたった一度の経験をきっかけに彼はだんまりの道を歩み、中学校に上がるまでの日々を喋らずに過ごしたのだという。(そのぶん家では喋りまくっていたそう)

この話を読んで、きっと私も最初はそんな些細なきっかけだったのかもしれない、と勝手に納得した。ただ私の場合は山下少年のように笑ったり筆談したりというコミュニケーションをとる気概もなく、一貫して無表情を貫き通し、そして究極的にはいかに無になるかということを徹底していた。自分でも矛盾していると思うのだが、朝の会の健康観察の時に欠席していると何度も名前を呼ばれて目立ってしまうので(欠席していたら自分はいないというのに!)、それを避けたくて毎日学校に通い、結局小学4年生までは皆勤賞だったというエピソードがある。まったくトンチンカンな頑固者だ。

そして私の場合、父親が感情を表現することが苦手で抑圧的傾向が強い人だったこともあって、家に帰ったからと安心してくつろげる環境ではなかった。暴力などはなかったものの、私たち兄妹や母親は、父がいつ怒り出すかと常に気を張っているところがあった。
ある意味では、生き延びるための術として心の内に安心できるスペースを保つために学校では押しだんまりして、さらにそれは家族や周りの人に対しての私なりの無意識の表現手段でもあったのだろう。

私自身は大学で教育心理学を学ぶ中で、はじめて自分が「場面緘黙症」という発達障害だったことを知った。(ちなみに「場面緘黙症」とは、特定の人の前や状況になると喋れなくなる症状のことをいう。医学的には精神疾患の一種と言われている)
その当時は私個人の独特な体験くらいに思っていた過去に、社会的な居場所が与えられていたのだと驚き、思考と心とが一筋の光によって貫かれたような想いだった。そういう人って他にもたくさんいるんだ、ということも私を少なからず安心させた。
母親にその話をしたところ、母親も私が学校で喋らないのに苦慮してはいたもののそういう性格だくらいに思っていたそうだし、先生との間でもそういう専門的な話がのぼることはなかったそうだ。当時は90年代後半〜2000年代前半、学校や家庭環境にもよると思うが、まだ今ほど学校現場での発達障害に対しての理解と支援体制は整っていなかった。

しかし、私の場合、幸運なことに小学5年生に上がるタイミングで引っ越しが決まり、その時から“キャラ変”して学校でも喋れるようになった。喋らない自分を知っている人がいない環境で、まったく新しい自己像を生きるようになったのだ。もちろんうまく自分の意見を伝えられずに友達との間でいざこざが起こったり、大人しい転校生に対しての男子からのからかいに嫌気がさしたりということはあったけれども、徐々に経験を重ねて、私なりに集団生活に馴染む術を獲得していった。(転校先でミニバスケットボールクラブに入って運動を始めたのも、心身とも前を向くいいきっかけになったのだと思う)

そして生来、私は人が好きな性格だったことに気がついた。兄と弟がいたこともあり、小さな頃から誰かと一緒に遊ぶのが大好きだったし、その関係性の中で起こる様々な体験が、私の中の冒険心と好奇心をいつもくすぐった。
画家の人がよく語るような一人で黙々と絵を描くのが好きだったというような経験の代わりに、私は年下の女の子たちに当時人気だった「セーラームーン」や「おジャ魔女どれみ」のイラストを、彼女たちに喜んでもらうために描くのがとても好きだった。
そして大学卒業後、フィリピン生活を契機に花開いた、豊かに感受する幸福な世界。それを表現して人に伝えたいという衝動を感じた私は、その方法として、やはり一番身近にあった絵を描くことを選んだ。今も昔も、人と繋がるための手段として絵を描くことをしているのは、考えてみると共通していた。

そして本格的に絵描きとして活動を始めた2017年から今に至るまでの経験を通して思うのが、もっともっと表現することは、絵を描くことに限らず、自分という枠に囚われず、自由であっていいんだなということだ。
頭であれこれと考えるより以前に、もっと純粋に自分のために作品を作っていきたいと思うし(それは時に勇気がいることだったりもするけれど)
これは理屈ではないのだが、作り手の純粋な精神に触れた時に人は感動を覚え、その純粋さの表れ(作品)を通して鑑賞者は各々の真理に触れることができるのだと思う。

アートの道に進んだ今でも、小さな頃の緘黙症だった私は“厄介な親友”として私の中に存在しているし、幼少期の緘黙症体験とそれを克服してからも生じる葛藤、それらが今、私が表現することに向かう理由となっているのは確かだ。

Mother (2019)

2023/5/14
ayaka

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