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心に住む怪物と生きていく/「女帝 小池百合子」を読んで

洗濯物が乾くのを待っている間に何となくKindleでポチった「女帝 小池百合子」。東京都に引っ越してきて間もなく実施された都知事選で小池百合子に投票した自分を思い出して読みだした。これが尋常じゃなく面白くて、最近活字離れが顕著だった私でも一気に読み切ってしまった。
それからというもの、いろいろな思いが頭をぐるぐるとよぎって、いてもたってもいられずランニングに出たのだけれど、あまりに本のことが頭を離れず、ぼーっと走っていたら転倒してしまった。結構派手にすりむいてしまって、数時間経った今でも血がにじむ。

私は小池百合子が無条件で好きだった。自分の力で「なりたい自分像」に近づいている、現代的な女性だと思っていたからだ。読了後の今の私は、目的と手段が入れ替わった人間不信の人間が織りなす人生の恐ろしさを自分に重ねている。

これは持論だが、地位や名声は本来、「それがなければ自分の目的を達成できない人」が目指すべきものだ。地位や名声そのものが目的になってしまえば、いざ手に入れたとて職責を全うできる可能性は低く、多くの人に迷惑をかける。そしてさらに上を求めてしまい、際限がない。
本書に描かれた小池百合子は「地位と名声が目的になった人」そのもので、残念ながら彼女が人生をかけて成し遂げたいことや人間味ある部分は感じられなかった。何なら彼女を頼って支援や陳情をした人々への余りの仕打ちに開いた口が塞がらない描写も多数見受けられた。

読んだ後に真っ先に思ったのは「私の中にも小池百合子が住んでいないか?」ということ。広報は、社会と関係構築を図っていく仕事だ。その手法はストーリーテリングとキャッチーさでメディアの耳目を引くというもの。小池百合子が政治家に転身後に幾度となく利用している手法そのものだ。(そもそも広報・PRという概念が政治や戦争から生まれた概念なので当たり前ともいえる)
でも、関係構築を生業とするのだからせっかく生まれたリレーションシップは大事にすべきだ。手段と目的を取り違えたりちょっとキャリアを積んだりした結果、自分が偉くなった気がしてどこか粗末にしてはいないだろうか。かなり身につまされ、反省する部分だ。

そしてもう一つ思ったのは、「それでも人は生きていかなきゃいけないんだよな」ということ。詳細はぜひ書籍で読んでいただきたいが、彼女の幼少期は波乱万丈だ。ほら吹きの父に振り回され、顔に「結婚できないだろう」と言われるほどのあざを顔に負い、スクールカラーも身の丈も合わない女子校で多感な時期を過ごした。
そんな誰も信じられない環境から抜け出したくて、何者かにならないと自分は生きていけないと思いつめるが、生涯かけて成し遂げたい目標に出会うことができない。そんな誰もが抱く焦燥を未だに抱いて生きているのが小池百合子なんだと思う。

本を読む限り、彼女の根底には「人間不信」が強く根付いている。他人を信じられない人間ほど、地位や名誉などの外的要因に固執し、上にこびへつらい、下と見るや足蹴にし、朝令暮改を当たり前に繰り返す。そして、他人を信じられない人が一番信じていない人間は"自分自身"だったりする。どれだけ猜疑心を向けても足りない、そんな自分と一生を共にするので精いっぱいで、他人に気を配るなんてできないんだけど、根底では寂しいんだよね。
小池百合子はそのやるせなさと一緒に今日も生きていると思う。自分にも思い当たるところがあるので、僭越ながら同情してしまう。

でも、人間不信を表に出して生きてしまうと人間の姿をした怪物になってしまう。この怪物は飼いならすのが大変だ。「自分を信じられていない自分」と「自分が他人に向けた言動」を常に俯瞰して見ていないとエゴの塊になってしまう。エゴで動いてしまえばもはや共存共栄で発展してきた人類として大事なものを捨ててしまうようなものだ。(もちろん、程度によるとは思うけど)
私は小池百合子にどうこうなってほしいとかみじんも思っていないけど、心に住まう怪物は一生なだめすかして生きていくべきなんだろうなと思った。たまに向き合わないと、やつらは牙をむく。それでも、人生の歩みは止まらないものだ。

人として生きていくために、怪物と付き合っていかなきゃいけない。そんなことを思いながら、いまだに血が止まらない傷をじっと見つめている。なんだか、すごく人間の"生"を生々しく感じた一冊だった。

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