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『ちいさこべ』 を読み返して、想像力について馳せた話

昨日電気もつけっぱなし着替えもしないまま気絶寝していて、朝方に目が覚めた(これを書いているその翌日も同じように寝て目が覚めてこれを朝方に書いている)。ちゃんと寝ようと思わず寝ているので、朝はちゃんとしようという気持ちが働くのか、作りおきのフムスをホットサンドにしている間に湯を貯めて、食べたあとに風呂で漫画を読もうと思った。本棚にあるものは引越ごとの断捨離運動に脱落せず、私と共に移動をし続けているものたちだから愛着がある。昨日手に取ったのは、望月ミネタロウの「ちいさこべ」4巻。wikiからあらすじを引用。

主人公・茂次は、大火で両親も店も失ってしまった、大工の若棟梁。誰の力も借りずに家業を再興させると片意地をはる彼は、同じ境遇の焼け出された孤児たちを放っておけず、自ら孤児をひきとり、育てていくことになる。
仕事と人助けの狭間で常に悩みながらも、人の道をひたすらみつけようとする茂次だったが…。

私は自分で「これは好きな漫画」と思って何度か読んでいたはずだし、だからこそ引越のたびに持ち運んできたわけだが、昨日久々に読み返してみたら魂消た。なんといえばいいんだろう。おそらく本質に初めて到達できたんだと思う。昔にはなかった今の自分の状態にフィットする細かな描写の連続で、風呂でさめざめ泣いた。2013年〜2015年に発表された作品なので、当時の私は26歳〜28歳だったが、こんなにも感じ方が変わるのかと本当に驚いた。作品を時間をおいて読み返すことで気づかされることが多すぎて、ほんとちょっとマジでガツンと面を食らいました。

簡単にいえば大工の若い棟梁(26歳)が家業を立て直そうと奔走する人情劇で、奔走する中で家事であったり日常をフォローする人々、心配をして手や金を貸そうとする人々、大工仕事をする組織上の上下関係やスキル・センス・プライドからくるコミュニケーション、悪ガキである孤児たちとの関わり、そういう描写の集積で進んでゆく物語ですが、おそらく自分がしばらく生きてきて「こういう場面において、こういう気持ちになってしまうことがある」だとか「自分でその感情を認めてあげることの難しさ・大事さ」というあたりの経験値というか、実感的なるものの幅や数や色味が初めて読んだ当時よりもかなり増えているので、作品への共感値が爆増したものだと思われます。嬉しい。また数年後に読めば変わるんだと思う。

 更にいえば、これは想像力についての作品だということを思った。想像力というと抽象的に聞こえるかもしれないけれど「今、この人はどういう気持ちなのだろうか」「あの時、彼はどんな気持ちだったのだろうか」「もしこういう言い方をされたら、彼女はどんな顔をするだろうか」「こんなことが起きてしまったら自分はどうするだろうか」「善悪と感情をごっちゃにしてはいけないとすれば、全ての事柄は善悪のみで判断されてしまうのだろうか」「きっと相性が合わなそうだという感覚にも正直でいるべきだけれど、それを調整していくことを諦める必要はないんじゃないか」「自分よりもはるかにスペックの高い相手に対して、自分はどのように振る舞えばいいか」「自分にしかできないことを突き詰めた時に、嫉妬の対象である相手に頭を下げることができるか」「恥と向き合った上でポジティブになれるか」「年齢も性別も関係なく、どこまで相手の目線に合わせて物事を考えられるか」「理解しがたい相手だとして、どんな切り口ならば感覚の共有ができるのだろう」「強く言い切るように振る舞うべきシーンで、自分の自信の度合いと実態がどの程度のバランスであるか客観的に感じ取れているか」「間違いを犯したりまだ足りないという時に、強がりすぎず、謝ったり助けを求めることができるか」「相手がどのような気持ちで何について、言葉や表情や態度で表現しているのか」「相手にとって何が失礼で嫌な気持ちになるのか」「相手は何が重要と思って話をしているのか」「自分が重要だと思うことについて、判断や宣言を求められた際に表現できるか(場合によっては相手ごとにその表現を変えなければならない)」というようなこと、これらを考えることが想像することなのだと思う。いびつな家庭も火の車状態である職場も、それに関与する人々の関わりで成り立とうとしている動的なものであるから、当然そこからはみ出る人が現れることもあるが、動的ながらもここだけは絶対に揺るがないという指針のようなものを共有できた関係はやはり強いというようなことも感じた。

GEZANも思い出した。 ボーカルのマヒトくんはよく想像力やイマジネーションの話をするけど、おそらくそれは「思いやり」に言い換えられるような性質のことであって、「思いやり」というとなんだか柔らかくて現実味が減ったいい感じのそれっぽさが伴うかもしれないけれど、彼らのいう想像力自体は、身近な友達や歩いていて目に映る街や目の前のお客さんに関与することなのだと思う。それをちゃんとまず見て感じられているのかって話。おそらくその精度が上がればその想像力は祈りと呼ばれる。

「我々は今どんな水槽に入れられているのか、そのガラスは透明なので分からない」

「想像してよ、東京  この街に価値はないよ」

コロナの影響をまずはじめにエンタメ的な興業界隈が受けたこと、もちろん仕方がない部分もあるし、今は世界的にも業界も関係なく大変なことになっているけれど、ライブハウスやクラブというものが世の中(というか弊国と影響力のあるメディア)にどう思われているのかが透けて見えた中で、自分と同じような気持ちになっている働き手作り手の声がたくさん上がったことに安心しつつも、制度として双方が話し合いをして配慮しあえることはいよいよないんだろうなとシンプルに絶望してしまった。大切にしていることがあまりに違いすぎると話をすること自体ができないということ。
でも考えてみれば、国やらメディアやらの規模でない身近な範囲でも「こんなにも伝わらないのか(むしろどこもかしこも伝わってなかったのか?)」「無意識にこちらが下であるという前提で話してるけどどうして?」「威嚇としてその言葉を使えるのはあなたの体の方が物理的に大きいからだよ」「簡単に見えるかもしれないけれどそれは一応特殊技能なんだよ(仕事として発注してくれても良いんだよ)」「何も考えていないから笑っているわけじゃないよ」「良かれというところで想像が止まってるけど、こちらにとって実はそれは良いことではないんだ」とか、そういう出来事がやっぱりいつまでもある。みんながみんな「自分は自分でよかった」と思おうとしていること自体は素晴らしいのに、その価値基準が自分の中にないとマウンティングを利用していくしかないのだと思う。

話を戻すと「ちいさこべ」中の登場人物たちはみな大人も子供も関係なく、自分ができることを自分のできる範囲でやり、自分のできないことはできないと表明するし、自分ができないことをやれる人に対してみなそれぞれ口が悪かったり口数が少なかったり顔がむくれたり眉間にシワが寄ったり、個性はあるものの、基本的にリスペクトをしている。相手の気持ちを汲むことが得意な人もいれば不得意な人もいる中で「私はあなたにこれをお願いしたいと思っている/なぜならば自分にはこの部分が不足している」という話がちゃんと自分の中と相手に芯が通った上で会話をしている。リーダーとして目立つべき立ち位置の人には必ず補佐裏方的な支えがあって成り立っている。そこにはお互いの理解と気持ちが前提として乗っかっている。
その上で起きる口論と、今日常を生きていて目に入りまくる叩きや炎上・パニックの類は、衝突的な事例の中でも全く違う階層に位置しているように感じる。後者ばかりで疲弊していても何も状況が変わらないので、できるだけ問題の解決に向けては前者に寄せていく必要があると思いつつも、長い絶望があるから後者になっているという現実が圧倒的な中で、祭りを起こす発想があってもいいし、わかりあえなさから地下に潜る発想の人もいるかもしれないし、GEZANでいうとそれが「新しい暴力」という言い方に値するような気もする。抵抗としての具体的な行動について、考えられる自分でいたい。

何かを想像する材料として、基本的には自分の見た景色や経験値しかないと思うのだけれど、その幾ばくかの補填として私は誰かの創作物に触れてきた・触れたいと思ってきたのだと思う。経験したこと以外を想像したっていいはずで、それは旅行や失恋や新しい趣味や仕事をする上でもおそらく拡張される。思考が停止すること、何かを当たり前だと思うまではいいにしてもそれを求めていない人に強要すること、そういう意味で目の前の相手とコミュニケーションが取れなくなることが今一番怖いことだと感じる。だからこそ「ちいさこべ」の世界はみんな素直で美しくて、作品自体は変わっていないのに、その受け取り方がこんなにも変わるのかと自分自身にもびっくりした。 真摯で強い作品にはそういう気づきを与える力があると改めて実感することになったし、その感度を落とさず上げていくことができれば、きっともっとたくさんの作品に反応ができるようになるであろうし、自分の想像力の幅も広がってゆくのだろうと思えた。



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