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毒親育ち、自己承認は難しいよねって話。

生育環境が、一般的に考えてマイナスから始まった人間として、たまに考える。

今現在、仕事があって食っていけて、のんびりと動画なんか観て過ごしたりして、ふとした瞬間に漠然とした焦りに飲み込まれそうになる。

昔は、一日一食ご飯を食べるのも難しくて、毎日生き延びるって行為だけで感情の振れ幅が激しかった。同時に「なにかを吸収して、なにかをやらなければならない」と本能的な生存欲のようなものが傍にあった。

それは人によっては思春期の一過性のものだと言うのかもしれない。ただ三十代になっても、尚続いているということは恐らく生存本能であると共に防衛本能でもあるんだろう。

私の吸収は小学生になるころからうっすらと始まって、中学生頃から本格的に行動として始まった。

ただ、その頃は[それ]を人に理解される形まで咀嚼した上で表す余裕はなくて。
とにかく人の作った暗黙の了解を理解することと、自分がしたいと思って、且つ成せそうなものに集中していた。

人の暗黙の了解とは違うかもしれないが、私はご飯の食べ方を知らなかった。お茶碗を持つこと、利き手でないほうはテーブルに乗せること、箸の持ち方。

知ってたことは、肘をつかないこと、口にものを入れたまましゃべらないこと。それくらい。

彼氏や、酔ったお客さんになんだその食い方、と要所要所で怒られなかったら、多分気付くのは相当遅かったと思う。

一事が万事というのだろうか。食事の仕方からはじまって、要するにひとの中で生きていくためのスキルやマナーが全くないまま一般的な人たちの中に放り出されてしまった。

鶏卵があればタンパク質が摂れるから大丈夫、ツクシは煮れば大丈夫、という家庭では確かにマナーを教える以前の問題だったんだけど。

弟妹が増えるにつれ、父の事業が傾くにつれ、家庭内も加速度的にぎくしゃくしていって、借金によって本格的な共働きとネグレクトに移行してから、やっぱり自分はクラスメイトとは決定的になにかが違うと感じ始めていた。

自我が強く扱いづらい子供だった私は、何度も養護施設に入れてやると怒鳴られながら、吸収すべき確固たる「なにか」を手に入れないと死んでしまう気がしていた。

本を読んで、勉強して、部活も大会に行って、なにか書けば/描けば、賞状を貰って。

すべて自分が生きるために必要だと思ってしたことだったけれど、もっとレベルの高い勉強がしたいと進学塾に行かせてもらったまではいいものの月謝の支払いで殴られ、

部活する暇があるなら家事をやれと怒鳴られ、入部時に参考までに資料として配られた必需品の値段表を見て「学校で貸してくれるの?よかった、買うなら辞めさせなきゃって思ってた」と当たり前のトーンで言われ。
大会には自分の親だけ応援にも差し入れにも来ない。

そんな毎日の中で「なにか」に近づいたと思えたのが、中学生の頃に文章でお金を貰ったことだった。書いたものが賞状を貰うのはよくあったけど、数千円でも現金を貰うのは衝撃だった。普段思っていることを、ただ書いているだけだったから。

それに味を占めて16歳ごろには自叙伝的なフィクション小説を書いて、お金がたくさん貰える賞に応募しようと思い立った。
書きかけのそれを読んだ親に激怒された。自分の口から出た言語じゃなくても、こんなに人の感情を左右できるんだ、と怒られたショックよりも嬉しさが勝った。

思ったこと、空想していること、それらを文章化する能力をもっと磨けば「なにか」を手に入れられるのかもしれないと薄っすら感じたものの、

それからの日々は、そんなあやふやなものを追えるような状況ではなくなっていった。

周囲が高校生活を満喫している中、17歳で家を出てとにかく働いていた。
たまに今のように焦って、いろんなものに手を付けた。

ライフスタイルからテクニカルなものまで、自分が突出するジャンルがないことを知るたび、
【育ちが悪い上に凡人】と書かれた、値引きシールを貼られた気分だった。

色んなものに手を付けたから、うっすらとできることや知っていることは多い。人はそれを芸達者だとか、大体のことは出来る人だとか、雑に褒める。私にとっては侮辱に近いニュアンスなのに、褒められる。

例えば、F1レーサーになりたくても能力の限界を知ってしまった人間に「運転うまいね」と褒めるような。

突出したなにか、確固たるなにか、自分を完全に承認できる物事や出来事や、瞬間。

それを常に求めて生きてきた人間だけど、広く基礎的なことをかじってるために職業選択の幅が広がった面もあって、
そういう時はもう色々できる頑張った凡人で自分を赦してあげようかな、と心が揺れる。

普通の人のスタートから周回遅れで走ったようなものなのに、なんだかんだ追いつけ追い越せって勝負できるまで追い込んだことはすごいよって、
思い切り自分へ甘く囁いて甘やかして、行動も思考も

(生育歴にしては)上出来だという自負に思い切り寄りかかかりたくなる。

ここ最近は、割とそういう安穏としたモードになっていた。

でもやっぱり、コンテンツを一方的に消費しているとき、今の私は与えられた餌を食べているだけのモノで、親元にいたときより後退していることに気付いて、焦る。

その「なにか」は他人からの承認なのかもしれないと考えたこともあったけど、実際承認を何度か手に入れても、違った。

他人からの承認は、単なる一時的な快楽だと確信した。

営業成績一位だとしても、最下位だとしても

コンクール優勝だとしても、入賞すらできなくても

オリンピック金メダルだとしても、それを練習しているだけでもだ

話題の農作物を作ってたとしても、小さな畑を守るだけの農家でも

評価や実態は関係なく、それをしている自分やその状況について、完全に自己承認のみで満足し、手に入れたと感じ、完結しているような。

そんなまだ実態すらわからない「なにか」を手に入れるまで、またはあきらめがつくまで、人生ってやつは容赦なく続くんだろう。

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