子どもがいることは_私にとってどんな意味があるの__7_

日々修行。摂心会:12月1日から1週間の朝坐禅に挑戦中

摂心。
摂とは心をおさめること。
禅宗では一定期間ひたすら座禅に専念することが摂心になります。

お釈迦様が12月1日から不眠不休で坐禅をなさり、8日の朝に悟りを開いたという謂れに習い、禅宗の修行でも12月1日から1週間休まず坐禅をするそうです。

今回はご縁のあったご寺院で門戸を開いていただきその機会を設けていただきました。
本来の修行の簡易版ではありますが、1週間朝坐禅に挑むことでまた自分の成長につながるものと信じこの度参加をしています。

2020年は大変化の時代と言われています。
これまでのパラダイムではその変化に対応できるかはわかりません。
自分が何者であるのか、何を求めているのか、それを理解していないと大波に飲み込まれてしまいそのまま沈んでいしまうようなそんなイメージがあります。

そんな時代の流れの中で自分が求めているのが常に「自分の高みを目指す」こと。
現状維持は低迷でしかない。
いつでも前を、未来を見て行動できる。
そういう自分を目指しています。
その思いから今回の坐禅は私に必要と判断しました。

6時から40分の坐禅です。
移動時間も含めますと1時間半近くはかかります。
土日はともかく、平日ですと子どもが二人いるものでその子たちの食事やら何やらで朝の貴重な時間を取られるのは正直きついのですが、それでも行く価値がある。

いつもの何気ない日常。
それが幸せではあるのですが、そんな日常の一コマにいつもと違う行動を混ぜてみる。
すると化学反応が起こって、いつもと同じことも相乗効果でもっとその輝きが増す。
そんな気がしています。

普段と違うこと、大きなことでなくてもいいですから、日々少しでも昨日と違う行動を取り入れてみること。
それがより人生を深く、味わい深いものに近づけてくれるとそう感じています。

本来の修行では、1日12回の坐禅にプラスして、食事の際の坐禅3回で合わせて15回は座禅をされるそうです。
これをこの寒い時期に1週間続けるわけですから、よほどのものと容易に想像ができます。
それでも禅宗のお寺様はこういう修行を経てこそのあの人格であるといえます。
以前葬儀のお仕事をしていましたので、多くのお寺様に出会いましたが、確かに禅宗のお寺様は素晴らしい方が多かったです。

その坐禅を、毎朝とても清浄な場であるお寺に行ってできるという非常にありがたい経験をさせていただいています。
毎日どうしても溜まりがちな「心のほこり」。
それを清らかな場所で坐禅をすることで少しでも払うことができる。

「学習」の「学」はもともとは「真似ぶ」つまり「まねる」ということ。「習」は繰り返すこと。
この摂心の会を通して、お寺という場所で、先人たちの行っていたことをまね、学び、そしてそれを1週間繰り返すという習慣にすることでより自分の中に深く入っていくような気がします。
より深い学びが得られるものと期待しています。

一緒に摂心座禅会に参加されている方々は本当に長年通っていらっしゃる方も多く、見た目からオーラが違います。
仙人のようないでたちの方もいらっしゃり、風貌だけでなく、精神的にも成熟されておられるであろうことが伝わってきます。
皆さま、坐禅をご自分の意志で選択されてるわけですので、そういう方々か集まる空間というのはなんとも居心地の良い場所です。
高めあうような空間。そんな感じがします。

朝から座禅をしますと、なんとも心がいつもより穏やかで、余計なものがないようなそんな感じで1日が始まります。
心の中のもやもやがなくなりますので、とてもいい状態でスタートを切ることができます。

最後まで皆勤賞目指して続けたいと思っています。

サポートしてくれなんて滅相もありません。 もしそんな奇特な殿方・ご婦人がいらっしゃった場合は、感謝しすぎて鼻血が出ることでしょう。(出なかったらすみません) そして大切なお気持ちは ”恩送り” に使わせていただきます。愉しくて温かい ”和” が広がりますように。