信州Day275 如月十五

十五夜が今夜で、明日は満月のようです。

春分の日は新暦だと21日だと思い込んでいて、うるう年の今年20日だったのに面食らい続けてしまいました。身体が納得してくれない。

東京で花見の話題なんかが出ているのをネットニュースで聞きながら、窓の外が真っ白に埋まっていくこちらの雪の状態を、少々うんざりした思いで見ていました。

でも、「あの雲が出ると春がくるよ」と明治温泉さんに教えてもらった、南~西の山に溜まる蛇のような横雲を昨夜も認め、週間天気で5℃以上になっている気温の流れを見て、アタマは少しホッとしたい感じ、身体はまだ緊張している、というせめぎ合いを観察しています。

『はてしない物語』の中で、夜ごと冷たくなって死ぬライオンのそばでバスティアンは泣いていたと思うのですが、彼と同じく、冬には枯れ果てるという五行の本来の様にショックを受けました。
人はみんな扉を閉ざして暖かい部屋に籠ってしまい、真冬でも、南向きのベランダに腰掛けて緑の柑橘の葉をぬくぬくと眺めていた身体は、置いて行かれたようで頼りなく、落ち込む。

バスティアンは第2夜目からはライオンの夜ごとの死を受け止め、ちょっと涙は出たけれど安心して眠った、と思います。ライオンは、自分の死に際し見守って泣いた人間がいたということに思い致してバスティアンを自分の君主に認定したと思う。(思うじゃなくてちゃんと読み返そう)

次の冬はもう少し落ち着いて受け止められるか。
冬は五行の中では「水」に属するんですけれど、その水要素との付き合い方が、ヒトが生きていくにあたってメインの課題だなと思う次第。
 
すべてはフラクタルな構造のようで、大きな冬の中に小さな冬があり、つまりは人生も中年以降は秋冬となっていくという大きな冬や、2日後にはまた雪が降るかもという小さな冬の予報や、さっき食器を洗うにあたっての蛇口から出てくれる小さな小さな冬や。
無数の冬の試し打ちに適度に生存を脅かされながら、気を引き締めたり緩めたりしてなんとかやっていくということ。

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貸し切り状態にて温泉に入りながら、後頭部を湯舟のへりにひっかけて浮いていました(そんなことができるのも、空いている明治温泉だから…)
浮けないところが、身体の中で少し滞って重いところ。足は浮き輪(肺)から離れているので浮きにくいですが、同じ腕でも右だけ沈むとか、十音の場合は肝臓のあたりが浮かないとか。2、30分ばかりもぼんやりしてると、だんだん力が抜けバランスがとれて全身浮くようになります。
すると上がった時、空気が重い!という感覚があるはず。
ずっしりと上から重みをうけて、身体は抵抗して2足歩行しているということを思い知る。
そのずーんとくる重みに気も引っ張ってもらって、足の方へ気を下してもらいます。
すると、趾を解したくなる。

湯に首まで浸かって身体に浮力を掛けてもらいながら(それも、熱すぎない温泉が良いですね)、鼓動に合わせてじんじんと反応するところがあるか感じてみる。神経に溜まっていたエネルギーの出口がひらき、抵抗が流れて消えて、配管清掃終了。

十音は身体のスキャンを自分の施術でできないので、内観するのに温泉を利用します。お湯がまた自在に形を変えサポートしてくれるのがよい。なので、空いている温泉ハンターと化しているのですが、温泉はそんなに空いていると成り立たないとのことで、永遠のジレンマです。

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まとまらない文章。

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