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體道(たいどう)第一 この世の本質は見えない

物事の本質は見えない?

八十一章からなる老子道徳経の一番最初の章句は、この世の本質は、「こんなもの」と名前をつけたり、言葉で説明することはできない、と始まります。

「道」というのは宇宙を動かすエネルギーのことで、私たちはみんなここから生まれてきました。この道のあり方を知って敬い、道のあり方を自分のあり方とすることが一番上手くいく、だからこの道についてどんなものか知ろう、そのために語ろうというのが老子の道徳経になります。

ところが出だしから、その本質は名前をつけたり、言葉で説明することができない、と書いてあります。

どんな心で見るのかで世界は違って見える

また、こちらがどんな心持ちで世界を見るのかによって、見える世界は異なるとも言っています。無心になると見える神秘的な世界と、欲望を持って見る混沌とした物質世界があって、この二つは「同じきより出でて名を異にす」、つまりどちらも道から生じていて、どちらが優れているとか、劣っているという話ではなく、両方あるという前提が重要です。

しかしながら老子は、見えない世界が表面に現れた見える世界を動かしている、と考えています。例えば人の心とか、見えないものがその人の言動を決めるというような感じです。

見えない世界は感じるもの

物事に名前や説明をつけて分かったつもりになってしまうと、既成概念にとらわれて苦しくなってしまうことがあります。東洋思想を学び始めたばかりの頃に、

「あまり一つことにこだわらず、『まあそんなもんか』としておけ」

と田口先生から教わりました。この教えを守るようになっただけでも、私はずいぶん楽になったことを覚えています。

老子は物事や現象に名前をつけたり説明することを否定はしません。だけど、それだけじゃない、例えば人の心だとか、見えないし説明できないけど感じるということがあって、その見えないところに本質があるというのです。

例えば、見えない自分の心がどんなものか探求する手法として、禅があります。禅は仏教が老荘思想に影響を受けて生まれました。禅仏教においても、悟りは禅の実践によって体感するものであって、言葉では説明できないものとされています。

既成概念を否定まではしないけど、一旦横に置いといて、オープンな気持ちでその時「感じる」ことを大切にすることで、見えない世界が見えてくるというのがこの章の老子からの教えです。

體道(たいどう)第一 書き下し文

道の道とす可きは、常道にあらず。名の名とす可きは、常名に非ず。名無し、天地の始には。名有れ、万物の母にこそ。故に常無は以てその妙を観んと欲し、常有は以てその徼(きょう)を観んと欲す。この両者同じきより出でて名を異にす。同じきものこれを玄(げん)と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。

解釈

宇宙を動かす摂理である道は、「こんなもの」と言葉でその本質を説明することができない。物事に名前や説明をつけて理解したつもりでいても、それが本質ではない。名前をつけたり、言葉にはし難いものから、天地は始まった。万物を生み出した母である宇宙を動かす摂理を、道という名で語ってみよう。

無の心で見れば妙の神秘的な世界を見ることができるが、有欲の心であれば徼(きょう)、世の中の表面的な現象が見えるからこちらは混沌としている。しかし神秘的な世界も、表面的な混沌も、両方ともが同じものから生じていて、別々の名前で呼ばれ、異なるもののように説明されている。

二つの世界が出てくる同じ源は、玄(げん)、暗くて見えない。その暗い暗い先に、全ての妙が生じてくる門がある。

参考

「ビジネスリーダーのための老子道徳経講義」田口佳史著
「バカボンのパパと読む老子」ドリアン助川著
“Tao Te Ching The Taoism of Lao Tzu Explained” by Stefan Stenudd
Web漢文体系 https://kanbun.info/index.html


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