〈全文公開〉 十一月七日(木) 晴れ

朝から気持ちが良くて、ひさしぶりにランニングに出た。正確には、最初だけランニング。後半はウォーキング。
公園の木の葉が色づいている。空の青に映えてきれいだ。

夕方、子どものピアノ教室。いつもならピアノが終わったあとにマクドに寄り、マックシェイクやチョコパイを買うのだけれど、今日は駐車場の自販機にあるナタデココの入ったグレープ味の飲みものを飲みたがり、戸惑いつつ買いあたえた。おいしかったらしい。飲み終えた子どもから「ぶどうです」という香りがした。(決してホンモノのぶどうの香りではないやつ)

以前noteに書いた『失いながら生きている』という記事に、ライター仲間のさやかさんがコメントをくれた。

アヤさんの日記を読んで、子どもを育てているなかで「知ることで失う世界」を感じて切なくなったのを思い出しました。子どもが文字に興味を持って覚え始めたとき、それまで五感の世界で生きてたけど大人の世界を文字情報で知っていくときの切なさとか…。

宇乃さや香さんのPost https://x.com/sayaka_yd_68/status/1854426193879265541

これを読んで、わたしも、子どもが「あか」や「あお」という言葉を覚えた時のことを思い出した。

その言葉を知るまで、この人は色をどんなふうに認識していたんだろう。
それは失われてしまったのかなと、成長はうれしいのに、すこし寂しくなった。
「うれしい」とか、「たのしい」とか。それを知るまでは、そこにおさまらない感覚を持っていたのかもしれない、とか。

言葉をおぼえるまでは、わたしたちはもっと自由に、言葉にはおさまらない気持ちや感覚を持っていたのではないか。もっと他の「ことば」を持っていたのではないか。

もしかしたらそれを見つけたくて、今、本を読んだり、文章をたくさん書いたりしているのかもしれない。

書いてみると、それを読んだ誰かがなにかを思い出して、それを見てまた自分がなにかを思い出したりして、とてもおもしろい。

ピアノから帰ると、相方が夕飯の支度をばっちり整えてくれていた。大根と豚肉の甘辛炒め。おいしかった。

仕事。今日も入稿できなかった。

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リアルタイムで、また、推敲される前の日記を読みたい(奇特な)方に。一か月ごとのマガジンにしようかなと思っています。(未定)

その日のうち、もしくは翌日までに書く日記やメモ。

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