失いながら生きている
ずっと昔、焙煎家の中川ワニさんの珈琲教室に参加した時のことだ。
ワニさんのデモンストレーションの通りに珈琲をドリップしようとするけれど、なかなか上手くできずに苦戦しているわたしたちに、ワニさんは言った。
「できるようになっちゃったら、『できない』って状態には二度と戻れないからね」
ワニさんは「できるようになること、知ることは決して良いことだけではないよ」と言っているようにも聞こえた。
そして現在のわたしは珈琲を淹れるのにすっかり慣れ、珈琲を淹れられなかったわたしのことを忘れてしまった。
バーナード・ショーの言葉だ。わたしはこの言葉を自分のデスクの横に貼り付けて、いつでも目につくようにしている。
「人は何かを学んだ時、何かを失ったように感じるものだ。」と解釈している。
この言葉をはじめて見た時、なぜだか泣けてきた。
「何かを知りたい、学びたい」と望むとき頭に浮かぶのは、現在の自分に何かがプラスされるようなイメージだった。
けれども実際は、それまで知らなかったことを知ることで、知らなかったことを恥じ、「これまで見ていたものはなんだったのか」と自分が歩いてきた道を疑い、足元がおぼつかなくなるような感覚をさえおぼえることもあった。
何かがプラスされる、といったポジティブな変化じゃなくて、まさに「何かを失う」、そんなネガティブな変化が訪れていたことに、この言葉を知った時に気づかされた。
「知ってしまったら、『知らない』って状態には二度と戻れないからね。」
ワニさんの言葉がこんなふうに変換されて、今でもわたしの頭の中に響いている。
それでも学ぶことをやめようとは思わない。むしろずっと学び、知り続けたいと願っている。
生きていると考え方の癖がつく。考えることに慣れてくる。
そうすると全てをわかったような気になり、傲慢になっていく感じがする。
わたしが若い頃もっとも嫌いだったものは「知ったふうなことを言う大人」だった。
わたしはどうしてもそうなりたくない。
だからいつでも「知らないことばかりだ」ということを知っていたい。
凝り固まった思考がぶっ壊れ、その時に味わう不安な感覚を大切にしたい。
何かを学ぶということは何かを失うということかもしれないけれど、何も失わずに全てを知ったような気になるよりずっとマシだ。(何を言ってるんだ?と思われるかもしれない)
それに、わたしたちは結局、どう足掻いても失いながら生きていくしかないのだと思う。
それなら、その覚悟を決めるまで。
わたしは今日も、失いながら生きている。
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