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花壇と養老孟司

今週は兄弟揃って保育園お休み。次男は先週アデノウイルス陽性が出てしまい10日間(!)登園禁止。長男も一昨日38.5℃が出てしまい早退。二人とも昨日から病児保育のお世話になっている。

行きつけの病児保育は8時半からと遅い。なので朝ごはんのあと、行くまでの間に長男と二人でガーデンマムを植えた。


ジジ ガーデンマム(写真中央)


去年引っ越してきた戸建てには猫の額ほどだが庭がある。これまで最低限の剪定しかしていなかったのだけど、先月ふと思い立って花壇を整備し、花を植えはじめた。


まずは、お花屋さんで「初心者でも簡単」と聞いたニチニチソウとペンタスを植えた。

小さな花をたった3株植えただけでチョウやハチが来てくれるようになり、なんだか嬉しくなった。

コスモスが好きなので、今度は後ろにまとめてキバナコスモス(トップ写真奥のオレンジ)を植えてみた。長男に「どのお花がいい?」と聞いたらアスター(トップ写真中央の紫)を選んだので一緒に植えた。待っている間「アスターちゃん抱っこしてるね」とポットごと抱っこしていて、その感性をなんとも愛おしく感じた。


おとといは保育園を熱で早退。2人も自宅保育じゃ仕事なんてできるわけがないので、諦めてまたお花屋さんへ行った。

背の高い後列、低い前列の間だからケイトウがちょうどいいかなーと思っていたのだけど、長男に聞いたら「これがいいよ!コスモスが大きいからこれがいい。そうだよそうだよ」とガーデンマムを選んだ。あとはピンクのアスターちゃんを「これも!」と追加で2株。

植えてみると、良い!ガーデンマムはとても華やかだなあ。


長男は最近「◯◯だから、xxにしよう」とよく言う。もうそんな難しいことを考えて言葉にできるのだなあと聞くたびに驚く。

例えば今朝は「(病児保育に)布パンツで行く?紙おむつで行く?」と聞くと「(病児保育の園に)トイレがあったから、布パンツで行く!」と答えて自分で持ってきてくれた。

なるほど昨日紙おむつを選んだのはそれを心配していたから。昨日行ってみてそれが解決した。それを言葉にして伝える力がある。は〜〜大きくなったもんだ、とおかんはただただ驚いた。





養老孟司を立て続けに読んでいる。気づいたら4冊読んでいた。


5冊目でようやく『バカの壁』。


この中では1997年の宮崎駿との対談が含まれる『虫眼とアニ眼』が一番古い。で、今年発売の『ものがわかるということ』に至るまで、ずっと同じことを言っている。

人類の歴史は都市化の歴史で、特に戦後は著しく都市化が進んだ。都市には人間の脳が作り出したものしか無く、そこでは例えば虫などの自然は排除される。田舎で石につまづいても何も思わないが、都市でつまづいたら「誰だ、こんなところに石を置いたのは」となる。

排泄や食事もままならない、都市のルールを知らずに生まれてくる子どもは自然そのもの。都市では自然は排除されるので、少子化が進んでいるのは当たり前。都市は子どもに「早く大人になれ」と言う。



個人的に納得したのは「小学生のなりたい職業ランキングにYouTuberが入るのは、現代人がいかに対人間だけの環境にいるかの表れ」という話。

たしかに私の好きな櫻坂46の歌詞も、ほとんどが対人間。花鳥風月はほとんど出てこない。最新シングルの「承認欲求」なんてまさにそう。

対人間だけだとどうしても息が詰まる。SNSには人間しかいない。虫や植物といった自然と向き合ってようやくバランスが取れる。



これは『スマホ時代の哲学』に出てくる「趣味」を持とう、という話にも通じると思った。

創作を通じて、つまり「何かを作る、何かを育てる」趣味を通じて、私たちは、「自分」と「他者」を絶えず行ったり来たりするような自己対話を積み重ねる必要があるということです。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』谷川 嘉浩
 p. 174

もちろん自分なりに手をかければ、それに応じてスイカが育つところもあるでしょうが、私たちの側が完全に主導権を握っているわけではありません。スイカは、私たちの計らいの外にあるものです。予測や想定、コントロールを超える部分が常にあります。
(略)
そうして謎と付き合う中で生じるやりとりは、自己対話の条件にあるいろいろな自分の一人を育てることにつながっていくでしょう。しかも、いろいろな他人との関係において成立する自分たちとは違って、モノとの関係において成立する自分です。

同上 p. 175

ここでの「スイカ」「モノ」がまさに養老先生の言う「自然」ではないかな。人間の計らいの外にあるもの、コントロールできないもの。



それもあって、土いじりを始めてみた。たぶん。つい先月のことなのだけど、なにを考えていたのかすっかり忘れてしまった。

いまの花壇の面々は11月いっぱいで花は終わるらしいので、早くも来年春へ向けての花壇作りが楽しみになっている。ビオラ、パンジーを一面に植えて、隙間からぽこぽこチューリップが生えてくるとかわいいかなあ、なんて。

花壇ボランティアなんてなぜやるんだろうと不思議だったけど、なるほど私も将来はせっせと花壇作りに勤しむマダムになりそうだ。





余談

養老孟司の都市化は自然(子ども)を排除するのくだりで、『自動車の社会的費用』を思い出した。

道はかつて人間のもの、特に子どもの遊び場だったのに、自動車の普及によってそれが奪われてしまった。そうして失われたものを「社会的費用」と呼びたい。そんな話だった記憶。数年前に読んで、印象的だった。また改めて読みたくなった。


ちなみに、『空気の研究』には1975年頃の自動車を悪とみなす「空気」(大気汚染や交通事故は全部自動車のせいだ!)に疑問を投げかける話が出てくる。で、『自動車の〜』が書かれたのがまさに1974年だった。

『自動車の〜』を読み始めたとき、「当然、自動車に対して問題意識がありますよね」といったトーンになんだか違和感があったのだが、なるほどそういう時代背景だったのかと4, 5年越しで納得できた。

読書ってやっぱり楽しい。

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