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髪色を変えて、私にさよならした日。

秋に。32歳の私は生まれて初めて、ブリーチをして髪を染めた。
黒髪は、みるみると脱色されて、黄金色になる。
鼻を刺す染料は、私の髪を綺麗なラベンダーグレージュ色に染めていった。
ラベンダーでもない、グレーでもない、ベージュでもない。

鏡に映る私はワタシであって、私ではない。そして見慣れぬワタシに少しの戸惑いと少しの解放を感じていた。

振り返ってみると、ワタシは私を裏切りたかったのだと思う。
世間を、裏切りたかったのだと思う。

これまでのしがらみ。周りからの視線。世間の価値観。ワタシに対する固定観念。
この島国で髪色をマイノリティな色に染めることで、世間や私に対して小さく啖呵を切ってやった。

「私はワタシ。誰の価値観にも囚われない。」

とはいえ、髪を明るく染めたからと言って、せーので私は別人となったわけではない。むしろ、この髪色に対しての評価や奇異な目が気になる裸のワタシは今までよりもずっと私だった。

知人と会う時は心拍数が上がる。電車では合った目をそらされる(気がする)。「その髪どうしたの?」と聞かれれば、頭をポリポリとかきながら、照れ隠しをする。

言い訳とも取れる説明をいちいちすることで、やっぱり私は変わっていないことに気づき、静かに落胆することもあった。

ワタシの価値観は世間一般の人や、多くの世代には理解されないのだ。一部の人に理解されれば良いのだ。そんな自意識から生まれる反骨心と天邪鬼がワタシを斜に構えさせていく。

私はワタシ。

私が髪を染めること。それは世間体を気にして本当のワタシを塞ぎ込むことへのアンチテーゼだった。
多かれ少なかれ、歳を重ねると思想が凝り固まり、価値観が定まっていくと思う。なので、目立つ髪色は一部の「大人たち」には受け入れ難いものである。特にビジネスシーンにおいては尚更だ。肯定されることは少ない前提で、ワタシは世の中に対して、毛先で密かに抗っていた。

けれども、時折ふと正気に返る時があった。

食堂のおばあちゃんが言った「その髪色、素敵ね。」という言葉。
祖母が笑いながら言った「いろいろあったんやなあ」という言葉。

物事の多様性や個性を受け入れる柔軟さに、年齢など関係ないのであった。世代間の傾向はあれど、勝手に作り上げた他人の価値観でワタシ自身を値踏みする必要はないのであると気づく。

私はワタシ。
仮に髪色がラベンダーだろうとグレーだろうと。

貴方はアナタ。
仮に髪色がラベンダーだろうとベージュだろうと。

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