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秋、中天に楕円球。

秋風が吹き始めると私は大きく深呼吸をする。鼻の奥が少しだけ冷たくなり、ツンとした香りが鼻腔で踊り出す。

「ああ、今年もやって来た」

心の中でそう呟いて、また息を吸いながら目を閉じる。すると、どこからか芝生の香りと誰かの歓声が聞こえてくるのであった。

 学生スポーツがクライマックスを迎えるのは(種目にもよるが)主に夏から秋にかけてだろう。最上級生たちは引退をかけて、最後になるかもしれない一戦に臨んでいく。

かくいう私も22歳の冬まで楕円球を追いかけていた。

 夏。全身に土がまぶされ、噴き出す汗で泥になる。芝生では白い短パンが緑色に染まった。練習中、ヤカンに入った水を胃に流し込むと、ほのかにカルキ臭が鼻を抜ける。

生ぬるい夕方の空気と共に飲むヤカンの水は、真夏に飲んだ時よりもどこかもの悲しい味がする。グラウンドを囲む水銀灯がゆっくりじっくり地面を照らし、私たちの足元に長い影を作っていた。

 秋。観衆が見守る中、天高くボールは舞い、筋肉は小さく断裂する。歓声と悲鳴が入り混じる。夢は夢のままで見送られ、気づけば夕風はとうに冷たくなっていた。

できたばかりのすり傷と青あざを纏いながら、後輩に託した言葉はもう覚えていない。けれどもその時、鼻腔を震わした何かを私の鼻は今でも覚えているのである。

秋風が吹き始めると私は大きく深呼吸をする。

鼻の奥が少しだけ冷たくなり、ツンとした香りが鼻腔で踊り出す。

その香りは、一心に楕円球を追いかけていたあの一瞬に漂っていた。
仲間と同じヤカンの水を飲み、濁りのない目で夢を語っていたあの一瞬に漂っていた。
ノーサイドのホイッスルと共に天を仰いだあの一瞬に漂っていた。

あの香りなのである。

毎年、秋風が吹くとその香りを深く吸い、私は自分の心に薪をくべるのであった。


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