恋文と童心 第二話・カレー臭(13)

「でも、そうだな。カレーの件は正直に打ち明けるべきかも知れん」
 足立先生は口調を改めた。「奥さんにスキルが無いわけではないんだ。俺の口に合うカレーだって簡単に作れるはずだ」
「何だったら、俺が食いましょうか?」
 そのカレーがどんな味なのか、一度試してみたくなった。
「うん、その案も悪くない。というか、つい先だって安生に同じ提案をしてみたんだ。カレーの日だけ、俺と弁当を交換しないかってな」
「安生は断ったでしょう」
「よく分かったな」
 彼は極度のゲーマーで、片手でスマホゲームをしながらもう片方の手で飯を食うスタイルなのだ。カレーがこぼれないように気を配りながらでは、ゲームに集中できまい。

「俺だったら構いませんよ」
「いや、やっぱり言うことにする。作り置きのカレーは、弁当だけじゃなく鍋の中にもあるからな」
「そういえば、家ではどうしてるんです? 奥さんの目の前じゃ、カレーをトイレに流すってわけにもいかないでしょ」
 俺は訊ねた。
「奥さんがカレーをこさえるのは週末の忙しい時だけで、夕飯は別々に取ってたから。今までは誤魔化せていた」
 先生の奥さんは結婚式場でイベント司会の仕事をやっていると聞いた。披露宴が週末に集中するため、家事の負担を減らすべくカレーを大量に作り置きするという話であった。

「彼女も作れないモテない男からすれば、贅沢な悩みなんですよ。せいぜい奥さんに怒られて下さいよ」
 話の結論を得、俺は鏡に向かって手ぐしで髪を整えた。最終的にはただのノロケ話を聞かされたようで、余計なお世話だったなと俺は一抹の虚しさを覚えた。
 足立先生が不意に爆弾を投じたのは、その時である。

「話は変わるが、お前、鴻池と付き合ってるのか?」
「へ?」
 声が裏返ってしまう。「な、何でです?」
 俺たちが付き合っていた事実は誰にも喋っていないはずだ。他人に漏れるはずがない。
「いや、違うならいいんだ。そんな噂を聞いたもんだからな」
「誰からですか?」
「うちのクラスの、細野だ」
 それであの女は俺のことを殺意を込めた目で睨んでいたのか。

 しかし彼女がその事実を知ったとなると、明らかに情報の出所は恋文である。誓って俺の口からは漏えいしていない。では一体、恋文はなぜ今頃になって俺たちの関係を暴露したのだろうか。女の子同士がよくやる恋愛話からのノリで、うっかり喋ってしまったのだろうか。思慮深い彼女がそんなケアレスミスを犯すとは思えないのだけれど。

 噂がどの程度広まっているかも気になるところだった。恋文の取り巻き数名の間で止まっていて、足立先生の耳に飛び火しただけなら、おそらく鎮火も早いだろう。人間拡声器こと細野真愛は恋文に心酔しているので、恋文が不利になる噂を拡散させたがっているとは思えなかった。むしろ火消しに奔走する姿が目に浮かぶ。

 さて、難しいのは俺の対応である。恋文の意図が分からないから動きようがない。今まで通り無視する方向で構わないのか。でも、変に他人行儀になるのもかえって怪しまれやしまいか。実は俺たち付き合ってたんだよと、冗談めかして噂を流してしまうのが正解なのだろうか。

「細野の言うことの八割は嘘ですから。真に受けないで下さいよ、先生」
 その場凌ぎで、俺はそう答えた。
「だよなあ。姉崎と鴻池じゃ、誰が見ても釣り合わんものなあ」
 いや、そこで笑われても何だか癪に障るのだけれど。
「今の台詞、先生と奥さんにもそっくりお返しします」
「うお、痛いところを突かれたな」
「まあ俺だってね、いずれ鴻池みたいな美人の彼女ができる幸運に恵まれると信じてますよ」
「うむ、信じる心は大切だ。頑張れ」
 足立先生の投げやりな励ましを受け、俺はトイレを出て行った。

 ──ううむ、なぜ今頃になって過去を蒸し返そうとするんだ? 俺とよりを戻したいわけでもあるまいに。
 心がざわつく。頭が苛々する。
 一度、どんな形でもいいから恋文と二人きりで話すべきだろう。会って彼女の考えを聞くべきだろう。俺はそう思い、二人でよく勉強した地元の図書館を指定して、彼女に会えないだろうかとメッセージを送った。

 ところが、いくら待っても恋文からの返事は来なかった。

                            三話に続く


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