恋文と童心 第二話・カレー臭(9)

 数秒後、さっそく恋文が動いた。細野に顔を寄せて、何やら耳打ちをしたのだ。
 細野は一瞬、目を真ん丸に見開いて、それから丈一を研ぎ澄ました刃物のような視線で睨みつけた。俺は笑いを堪えるのに必死だった。

「やべーぞ。俺、細野に命を狙われてるかも知れん」
 丈一が助けを求めた。
「やっぱり狙いはブッチか。分かってるだろ? お前は細野に惚れられてるんだ」
「嘘だろ。奴の顔が怖過ぎてしょんべん漏らしそうなんだが」
「贅沢言ってられる立場か? 手も触れられないアイドルばかり追いかけてても、童貞は卒業できないんだぞ?」
「アネさんは鬼か。細野で妥協しろってか?」
「無理にとは言わん。数少ないチャンスだろと言ってるだけだ」

 俺もさすがに悪友を騙すのに気が引けて、トーンを一段階落とした。しかし丈一と細野、決して悪くないカップリングだと思うのだが。丈一は体格もいいし、性格だって大介に比べればまともだし、ただアイドルの追っ掛けに情熱を傾け過ぎているだけで、むしろ俺よりもモテる要素は多いと思うのだ。

「理想と現実だよ、ブッチくん」
 と、大介が悟った口調で言った。「もし二人がうまく行ったら、それは僕たちモテない男にとっても希望の種となる。僕は君たちを応援するよ」
「LS同好会の目的趣旨を忘れたか? 女子とお近づきになれる偶然の機会を決して逃してはならない。とりあえず、笑顔で手を振ってみろ」
「そ、そうか?」
 周りから囃し立てられ、丈一もその気になってきたらしい。岩のような顔面にぎこちない笑みを浮かべて、細野に向かって軽く手を振った。
「ひっ!」
 明らかに細野の顔が引きつった。椅子ごと後ろに卒倒しそうになるのを、恋文が慌てて背中を支えるのが見えた。腰砕けとは、こういうことを言うのだろう。余程のショックを受けたのか、まともに歩くことさえできず、恋文と篠塚に「大丈夫?」と両脇を抱えられながら、彼女は講堂広間から退場していった。

「で、今のはどういうリアクションだ?」
 丈一が問いかける。
「そうだな。強いて言うなら、ジャングルを歩いていたら突然目の前にマウンテンゴリラが現れて求愛されたような反応か」
「おい、俺はゴリラかよ」
「細野を撃退するには、ウィンクが有効なんだねえ。これはいい情報を得たよ」
 大介にとっても細野真愛は天敵なのである。『三G』などという嬉しくない呼称が学園じゅうに広まったのも、細野一派の積極的なロビー活動があってこそだ。

「もしかして、俺を煽ったのは最初からこれが目的か?」
「何を今更。それ以外に、何があるよ?」
 俺は言いながら、購買でパンを買っている一人の男子生徒に目を止めた。一年B組、安生銀介。彼と話したのは先日のトイレのドア越しが初めてだったが、その後一応、顔と名前は確かめておいたのだ。
 彼はパソコン部に所属していて、噂通りかなりのゲーマーらしい。所持しているゲームソフトは三百本を越え、ファミコンやメガドライブなどレトロゲームのコレクションにまで手を伸ばしているそうだ。ゲームの知識が豊富で、簡単なプログラム程度ならば自分で組める技術を持っていた。

 ちなみに隣の個室を使っていた先輩は、二年C組で名前を穂高克敏(ほだかかつとし)という。彼とはあの後、二人きりで話す機会があった。先輩の方から、俺と話がしたいと呼び出されたのである。どうやら先輩は、カレーを食っている犯人は安生が怪しいのではないかと睨んでいるのだった。その理由を訊ねたところ、
「カレーの臭いはいつも左隣からするんだよ。あそこを使ってるのは安生だ。それにあいつの家は洋食屋をやってるだろ。知らないか? 隣町の駅前にある『パンチャ』って店。あそこ、安生の両親が経営してるのさ。洋食屋ってことは、新メニューの研究をしたりするもんだろ。余りもののカレーを弁当に持ってくることもあるんじゃないか?」

 なるほど、洋食屋の残り物を弁当にという発想は悪くない。
 しかし本人はゲームをやりたいから片手で食うものしか持って来ないと明言していたし、実際にこうして購買のパンを買っている姿を目撃したからには、先輩の推理は否定せざるを得ない。

「お前ら、いい加減にしろよ。いくら温厚な俺だって終いにゃ怒るぞ」
 丈一が椅子から半分腰を浮かした。
「へえ、ブッチくんはまさか本気で細野が気になってたのかなあ?」
 大介が自分より一回りでかい友人をからかい続けている。
「冗談よせや。俺はアイドル命。一般人風情に興味があるもんか」
「だったら怒ることないじゃん」
「お前らにダシに使われたのが気に食わんのだ。これでまたおかしな噂が広まったら、どう責任取ってくれんだよ」
「その点は安心しろ。細野が自分に不利になる噂を流すことはない」
 俺は再びスマホでメッセージを打ちながら断言した。

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