恋文と童心 第一話・サボテン(5)

 ああ、認めよう。俺は心の底から恋文のことが好きだった。それまでの人生があまりに不遇だったため、自分が一人の女をここまで愛しく思えるなんて想像もしてなかった。一番初めに特大な驚きがあり、その後しばらく有頂天の毎日が続き、やがて恋文という人間を知ってゆくにつれて、彼女のことが頭から離れなくなった。何事においても感情より先に理性がくる俺が、頭で考える前に恋文に触れたくなったり、キスをしたくなったり、セックスをしたくなった。こんなことあり得ないだろう。

 だが一方で、俺は遠からず恋文と別れる日が来るであろうことを予見していたのかも知れない。彼女と会えない時、俺の心は常に不安に満ちていた。こんな幸せな日々が長く続くわけがない。思い出してみろ、お前がどういう種類の人間なのかを。彼女のようなお姫様に愛される要素がどこにある? 全身をMTスキャンにかけて輪切りにしたって見つかりはしないだろう。

 多分、恋文にとって俺の存在とは、原因が何だか分からない心の傷にできたカサブタのようなものなのだ。小さな傷が癒されるまでの、心の表面を覆ったかりそめの皮膚。そして傷が完治してしまえば、ぽろりと剥がれ落ちてしまう。

 俺の予見はものの見事に的中した。恋文の口から唐突に別れを切り出されたのは、俺たちが常盤下学園の合格発表を見に行った一週間後のことだった。頭が呆然としていてどんな台詞を言われたかまでは覚えていないが、とうとうこの日がやって来たかと、俺は薄ら笑いを浮かべていたと思う。

 ただ、俺みたいなゴミにもわずかばかりの矜持はある。女にフラれたからといって情けない姿だけは晒したくなかった。心では嫌だ嫌だと泣いてすがり付きたい気持ちにもかかわらず、おれはあっさりと彼女の別れ話を受諾した。アホな中学生がいっちょ前に強がってみせたのである。この期に及んで、俺は女にフラれたからといって動じるようなカッコ悪い男ではないのだと、死に物狂いで外面を取り繕ったわけである。

 もしあの時、俺が土下座して別れないでくれと頼んだら、恋文はどういう反応を示しただろうか。恋人関係の解消を撤回してくれただろうか。いや、それはあるまい。あの時、恋文の瞳にはすでに俺の姿は映っていなかった。彼女は俺を通り越して、その先にある新たな学園生活を見つめていた。そんな気がする。

 わずか三ヵ月の恋人関係はこうして終わった。皮肉なことに、俺たちは高校でも同じクラスに振り分けられた。教室で彼女と顔を合わせるのは非常に気まずかったけれど、どうやらそんなことを気に揉んでいたのは俺だけのようで、彼女はまるで何事もなかったように明るい笑顔ですんなりとクラスに溶け込んだ。そして俺の存在は完全に無視された。会話どころか挨拶の言葉一つかけてくれなかった。

 むろん、俺たちが付き合っていた事実を知る人間はいない。俺たちの中学校から常盤下学園に入学できたのはほんの数名で、俺が口を滑らさない限り、その事実が知れ渡ることはあり得なかった。もちろん俺は口を閉ざしたままでいるつもりだ。二人の過去をバラしたところで何の得にもならないどころか、恋文には最低男の烙印を押されるだろうし、己のあさましさに自己嫌悪に陥るだけだと分かっていたから。

 学園でも評判のお姫様と、クラスでも爪弾き者のゴミ虫。
 何のことはない、お互いが以前の立場に戻っただけのことである。未練がないと言えば嘘になる。彼女と寄りを戻したい気持ちは、次の彼女が見つかるまで消えることはないのだろう。しかし何度も言うが、俺は感情より先に理性を優先させる人間だ。俺がいかに女にモテない人間なのか、理屈をこねくりまわしながら、これまでの人生を送ってきた。それゆえ俺は「恋文と俺では最初から不釣り合いだった」という客観的事実を何度も反芻して、むりやり自分を納得させた。フラれたショックを引き摺らないためには、そうせざるを得なかったのである。
 今現在、俺の心を占有しているのは、恋文が俺と付き合ったことを後悔して欲しくないという願い。そしてできることなら、高校を卒業するまでに解消しておきたい二つの疑問。

 鴻池恋文はなぜ俺と付き合ったのか?
 鴻池恋文はなぜ俺と別れたのか?

 果たして彼女の口から真実を聞かされる日はやって来るのだろうか。

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