恋文と童心 第二話・カレー臭(12)

「あー、分かりますよ。俺も香辛料じゃないけど、香草がどうしても苦手でタイ料理とか食べられませんから」
 あの独特な香りは絶対に料理に合わないと思うのだ。料理というのは味のハーモニーであって、香草の香りと味だけが突出しているのが馴染めない。

「うちの奥さんはとにかく料理が得意で、得意なだけに凝り性でもあるんだよ。カレー一つを取ってみても、市販のルーは絶対に使わない。俺にはよく分からないが、わざわざスパイスを何十種類も買い込んで独自の調合をしたりしている。あっ、誤解すんなよ。もちろん本人納得の味に仕上げているわけだから、そのカレーは美味いんだぞ? ただ、俺の体質には合わなかったってことだな。奥さんの作ったカレーを食うと、体が熱くなって嫌な汗が止まらなくなる。たまに吐き気もする」
 ただの精神的作用なのか、アレルギーのようなものなのか、先生の説明だけではいまいち掴みどころがなかった。

「奥さんに、正直に言えばいいじゃないですか」
「言えるかよ」
 と、先生は語気を強めた。「姉崎よ、世の中にはプライドの高い女性がいてな。そのプライドをへし折ることは決してやってはならないことなんだ。まるで自分の人格が否定されたように、彼女たちは激昂するからな。女のヒステリーは恐ろしいぞ。しかもそういう女性に限って、たった一度の苦言を十年も二十年も覚えていて、事あるごとに『あの時あなたはこう言ってわたしを傷付けた』とぐちぐち文句を垂れるんだ」
「先生は恐妻家ですか」
「いつもそんな風ってわけじゃないんだぞ。怒らせると怖いってだけだ。だから、なるべく家庭に波風を立てない身のこなしが必要なんだ」
「苦労してるんですねえ」
 言葉の隅々に哀愁が感じられて、何だか泣けてくる話だった。

 美人で気立てが良くて、仕事も家事もバリバリこなす、足立先生には分不相応と評判の奥さん。自分とは不釣り合いだと引け目を感じているからこそ、強い立場に出られずにいるのだ。
 彼女の機嫌を損ねまい。俺が我慢すれば事は丸く収まるのだから。足立先生はこの先一生、奥さんを立てて生きて行かなければならないのだろうか。先生にとってそれは幸福な結婚生活と呼べるのだろうか。

「いいや、俺は果報者だ」
「本当に?」
「当たり前だ。姉崎よ、物事の一面だけを捉えてすべてを悟った気になるなよ? 俺はより多くの大切なものを奥さんから与えて貰っている。それは例えば、癒しだったり、生活全般での補助だったり、まあ色々だ。充実した生活を送っている喜びがあるからこそ、多少のことなら我慢できるんだ。何より、俺は奥さんを愛している。愛だよ、愛。彼女のいないお前にゃまだ分からんだろうが」
「あーはいはい。ご馳走様です」
 言いながら、俺の胸に去来するのは恋文の笑顔だった。

 ──足立先生、俺にだって少しは理解できますよ。
 わずか三ヶ月の短い間だったが、俺は恋文との交際で数多くのかけがえのないものを得たと思っている。彼女の勧めもあり、最初から無理だと諦めていた常盤下学園への受験に踏み切ったこと。彼女と二人三脚で勉強を重ね、現実的ではないと教師すらも否定的だった入試に見事合格したことがその最たる証しだ。

 決して俺一人では適わなかった偉業。
 何より、彼女と二人で一つの目標に向かって歩んでゆく過程で、俺は自らに対する自信を深めていった。できる女性というのは、さり気なく男の手を取って一段上のステップへと引き上げてくれる。そして男のほうも、彼女と釣り合うだけの立派な人間になりたいと、謙虚に努力するようになる。そのシナジー効果を実際に成果として得られたとき、彼女と付き合って本当に良かったとこの上ない幸福を感じるのだった。
 今の足立先生がまさにその状態なのだろう。羨ましい限りだ。
 リア充、爆発しろ。

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