恋文と童心 第二話・カレー臭(11)
明くる土曜日。
授業が半ドンで終わり、他の生徒たちが帰り支度を始めるなか、俺の足は第一校舎一階の西側トイレに向いていた。放っておくべきか否か、迷っていたのは事実だけれど、いったん首を突っ込んでしまった以上は区切りを付けなければと考えたのだ。
男子トイレに入ってゆくと、予想通りカレー臭が充満していた。トイレの芳香剤の香りと交じって何とも息苦しくなる臭気である。
三つある個室のうち、入口に一番近い扉だけが閉まっていて、後の二つは空いていた。授業が午前中で終わるため、部活動をやっていない鈴木も穂高先輩も今日は弁当を食べる必要はないのだった。
俺は小便を済ませたあと、洗面台の前で念入りに手を洗った。そして鏡越しに、背後にある個室のドアを見つめて呟いた。
「足立先生、俺思うんだけど、カレーはやっぱりトイレで食うもんじゃないですよ」
沈黙は長かった。たっぷり一分は経過した後、おもむろに男の声が返ってきた。
「その声は姉崎か。どうして俺だと分かった? 安生に聞いたか?」
「いえ、彼は秘密を守ってますよ。口を滑らせたことはありましたけど」
今週の始め、俺が三人と話し合った時のことだった。
安生は俺の質問にこう答えたのだ。カレー臭が放たれるのは「週末金曜、土曜に集中している」と。
金曜なら分かるが、土曜日とはどういうことかと、俺は疑問に思った。土曜日に弁当を持参するのは部活動をやっている生徒か、教師のみである。
それだけではない。俺が最初にカレー臭と遭遇したのは腹が痛くなって四時間目の授業中にトイレに駆け込んだ時だった。俺が入った時にはすでに一番右側のトイレは誰かが入っていたのだ。
そして昨日、俺は携帯で鈴木とやり取りをした。彼が言うには、カレー臭の犯人は昼休み開始からわずか十分でカレーを食べて出て行ったという。カレーを十分で掻っ込むことはもちろん可能だが、俺はもう一つの可能性を頭に思い浮かべた。すなわち、犯人は昼休みが始まる前からトイレで昼飯を食っていたのではないかと。
土曜日に弁当を持参する人物。加えて、生徒が授業を受けているはずの四時間目に、自由にトイレに出入りできる人物。条件は絞られていったのである。
「お前って奴は、本当に変なところに頭が回る奴だな」
俺が説明すると、足立先生は半ば感心し、半ば呆れ気味にそう言った。
「先生、ここにある三つの個室は使用人がほぼ固定されてるんですよ。向かって右から一Bの安生、真ん中がニCの穂高先輩、左が一Dの鈴木です。そして彼らの証言によると、カレー臭は一番右の個室から漂って来るという。これは俺自身も確認しています。つまり安生が利用している個室だ。それなのに安生はカレー臭の犯人を知らないと言った。俺は彼が嘘をついていると感じました。彼はきっとカレー臭の犯人と顔を合わせている。何か事情があってそれを黙っているに違いないって。足立先生の担当教科は情報処理で、確かパソコン部の顧問でしたよね。安生はパソコン部に所属している。二人はもとから繋がりがあったわけです」
「ああ、そうだ。俺が安生に頼んだんだ。たまに個室を貸してくれ。それとこのことは口外しないでくれってな」
足立先生は素直にそれを認めた。「そういえば姉崎、この前職員室に電子レンジを貸してくれって来たよな。あれも、そうなのか」
「電子レンジは別に、重要じゃありませんでした。カレーを温めるのに、教師なら職員室のレンジを自由に使えるのは分かってましたから。それよりも俺はあの時、先生の弁当の中身を確認したかったんです。先生、あの日はチキン南蛮を食べてましたよね」
「そうだったか?」
「間違いないです。先生はカレー以外の献立の時は、職員室で食べたり、時々うちらの教室で愛妻弁当を見せびらかしたりしてますね。なのにカレーだけは、こんな場末のトイレでこっそりと食べている。俺はその理由が知りたかった」
「理由って言われてもな」
「先生、カレーが嫌いなんですか?」
俺が質問をぶつけると、足立先生は違う、とそれを否定した。
「カレーそのものが嫌いなわけじゃないぞ。普通のカレーは普通に食えるんだ」
「奥さんの作ったカレーが食えないんですね?」
「……ったく、お前は何でもお見通しだな」
先生は扉の向こうで笑ったようだった。「白状すると、香辛料がダメなんだ」
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