恋文と童心 第二話・カレー臭(6)

「なるほどねえ。ようするにここのトイレはあんたたち三人で寡占状態にあるわけだ。俺みたいなイレギュラーが増えると、さっきみたいに醜い争いが発生する、と」
「そうでもない」
「そうでもないって?」
 俺は向かって右の個室にいる安生君に訊ねた。
「自分たち以外にも、ここを頻繁に利用する奴がいるってこと。人数までは正確に分からないけど」
「そうなの?」
 今度は他の二人に向かって問いかけた。それに鈴木が答える。
「さ、最近、あぶれること増えてきた。だから、教師が時間読めなくて授業が遅くなると、イライラするんだっての」
「早いもん勝ちだ。諦めろ」
「後輩に因縁つけて後から割り込もうとした先輩が、よく言う。でも、そうなるとちょっと事情が変わってくるのか」

 俺は自分の昼飯のことを忘れ、すっかり話に夢中になっていた。
 友達がいない孤独な男たちの聖域が、飽和状態に陥っている。安住の地をどうしても手放したくなければ、誰かに出て行ってもらうしかない。軋轢を生みだし、この小さなコミュニティーの関係をぎくしゃくさせる。そのための嫌がらせが、例のカレー臭だ。そうは考えられないだろうか。
 俺は少しの間を置いて、核心に切り込んだ。

「で、この三人のうち誰がカレーを食べてるの?」
 すると先輩と鈴木がほぼ同時に声を上げた。
「俺じゃねえし」
「カレーなんて食ったことないっての」
「となると残るは……」
「勝手に犯人にされても困る。言っとくけど、自分はゲームやりながらだから、基本的に片手で食えるものしか持って来ないよ。おにぎりとかパンとか。カレーなんて、両手で持たなきゃ食えないじゃん」
 安生の言い分には説得力があった。
「三人ともカレーは食ってないと言う。おかしいね。他に考えられるとすれば、君たち以外の誰かってことになるけど、心当たりはないの?」
「ここのトイレを使ってる奴ってことか? 俺が顔を知ってるのは、こいつら二人だけだ」
 先輩は言った。
「俺もこの二人しか知らない」
「同じく」
 と、鈴木と安生が続けた。

 トイレの常連ともなれば偶然、顔を合わせることもあるだろう。逆に誰にも目撃されずに出入りするほうが難しいと思う。まあ、二度三度のことならば、俺がそうであったように、誰とも擦れ違わないこともあるだろう。しかし頻繁に利用しているとなると、そのカレーを食っている人物は意識して他人の目を避けているということになる。

「これまで、張り込んで正体を突き止めようとか思わなかったわけ?」
 俺は窓際に移動しながら訊ねた。西側一階トイレには外に通じる窓が一ヶ所あるが、アルミ製のサッシがネジで固定されていて、ここから出入りするのは不可能であった。
「わざわざ、そんな面倒なことしないっての」
 鈴木が口に物を詰めた状態で言った。安生がそれに追随する。
「たかがカレーの臭いだもんね。トイレがカレー臭くなるのは不快でも、我慢できないほどじゃない。張り込みに時間を費やすくらいなら、自分はゲームをやるよ」
「張り込みじゃなくても、カレーを食ってる奴がトイレから出る時に、ドアを開けて顔を確認するだけでいいんだが」
「んー、顔を見て、文句を言えって? トイレでカレーを食うな馬鹿野郎って。姉崎君だっけ? 君は何か勘違いをしてる。自分らは安住の地を求めてトイレに来てるんだ。余計なトラブルを背負い込むような行動を取ったりしない」
 カレーの臭い程度では動機としては弱いのか。俺だったら気になって仕方ないから絶対に顔を見てやろうと思うけれど、ここでは少数意見のようだ。

「じゃあ質問を変えよう。その人物は、いつもカレーだけ食ってるんだろうか。たまにはハヤシライスやオムライスを食べないんだろうか?」
「分からんね」
 今度は先輩が答えた。「それ以前に、カレーを食ってる奴が一人なのか複数なのかも確証が持てない」
「ひ、一人だよ。俺、臭いで分かるっての。いつも同じ臭いだから」
 鈴木は鋭敏な嗅覚の持ち主らしい。
「うん、そこは鈴木君を信じよう。トイレでカレーを食おうと思う変人が何人もいたら、それはそれで不気味だから。あと先輩に質問だけど、カレーの臭いは去年からしてたのかな? もしそうならば一年は容疑者から除外されるんだけど」
「いいや、ここ何ヶ月かのことだ」
「三ヶ月くらいだよ。夏休み直前に、確か一度あった気がする。それと、これは自分の気のせいかも知れないけど、週末金曜、土曜に集中している感じ」
 と、安生が後を継いだ。

「つい最近なんだな」
 俺は頭の中で仮説を組み立てる。「実は俺も先週の金曜にカレー臭を経験してるんだ。面白いね。その人物はおそらく、カレーを食う時にだけここのトイレを利用してるんだ。どういう理由でそんな奇妙な習慣が付いたんだろう」
 あくまで三人以外の人物を想定してそう言ったが、もちろん彼らのうち誰かが犯人である可能性も俺は捨てていなかった。三人のなかに一人嘘つきがいるとしたら、果たしてそいつは誰だろうと、俺は三つ並んだ個室のドアを眺めながら考えた。


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