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CENZ BARの中の、Aya。

CENZ BARを展開しているのは(株)MITORA。
そのMITORAのメンバー、私Ayaがどんな人物なのか、そして元ギャルで元バリキャリ志向だったのになぜMITORAにいるのか、脳内思考含め、記します。

長くなりますが、お付き合いください。


■大まかな自己紹介

  • 代表の鈴木 暁文(スズキ トシフミ)の姉

  • 香港の純血

  • 国籍は日本、横浜生まれ横浜育ちの元ギャル

  • 元々の夢はAttache de Press

  • 自称健康オタク

  • ブラコンではないけれど、ブラコン以外の言葉が見つからない

■経歴

  1. 横浜の高校を卒業

  2. ファッションの専門学校を卒業

  3. ニューヨークへ留学

  4. 約8年ファッション業界を経験

  5. (株)MITORAにジョイン、担当はなんでも屋

  6. 並行して別会社にてIT&Webマーケも

この記事のサマリ

1)わたし。
2)人生の分岐点1
 「Attache de Pressとの出会いとファッション業界」
3)人生の分岐点2
 「健康とヴィーガンをきっかけに知ったリアル」
4)ファッション業界を辞めた理由と今に至るまで
5)今、想うこと。

※2〜4は特に長いのでお気をつけを。笑

すたーと!

1. わたし。

香港の両親から生まれた私は、生まれる前より両親が日本へ移住。
横浜で生まれ横浜で育ち、小学校に上がると共に、いじめられないようにという両親の想いで帰化。

幼い頃より人並みに色々ある家庭環境で育った中、
大好きだったのがドラマ、花より団子。もっと言うと、「牧野つくし」。
どんな環境や逆境の中でも自分をしっかり持ち、頑張る姿に魅了された。
こんなかっこいい人間になりたい。と、心の底から思った。

時として高校生。洋服、色、柄、キラキラしたものが大好きだった私は当時Ranzukiというギャル雑誌を知ってから、もれなくギャルになった。
みんなでワイワイしたり、イベントや楽しいことが大好きだった私はギャルサーもやってみた。両親の影響か、世界を見たく海外研修や留学もした。

昔は、一言で言えば猪突猛進。バリキャリ志向。
今は、何周か回って、時としてパワーガール。また時として子ども。またまた時として、おばあちゃん。
ギャル魂は健在。それが私。


2. Attache de Pressとの出会いとファッション業界

私の人生を語る上で欠かせないのが、Attache de Press(アタッシェ・ド・プレス)。日本で言う広報になるという夢。
そもそもファッション業界に進むことになったのは、高校3年生の頃に友人に言われた一言。

「綾、そっちの業界にいけばいいのに!」
この時、衝撃が走った。
敷かれたレールの上で生きるかのように、何故か普通の大学へ行き普通に就職することが当たり前だと思っていた。ましてや専門学校だなんて尚更アウトオブ眼中だった。

よくよく考えれば、楽しく生きることがモットーだった。そのために校則が自由な高校を選んだ。
そんな私が4年制の大学に入って何をするのだろうと、その先の仕事は何をするのだろうと、ふと疑問を感じた。どうせ人生の大半は仕事に時間を使うのだから、それならば楽しいと思えることをしようと。仕事さえもワクワクするものを!と思った。

Attache de Pressとは、例えるなら金太郎飴。
どこを切っても同じ絵が出てくる、それが金太郎飴。

ブランドには、絶対にブレない1本の軸が存在する。それがエターナルテーマであり、コンセプトである。いわば心臓となる部分。
軸がないと、何をするにもブレてしまう。ハイブランドは、確固たる信念があるからこそ独自の世界観をあんなにも美しく、カッコよく表現することができる。表面を取り繕っただけではない。

確固たる信念があり、
コンセプトを守り、
継承し、
同時に進化もしていく。
よって、ストーリーに深みが増す。
それを多種多様な角度に落とし込み世の中へ届ける。
このどれか1つでも欠けたら、ここまで成り立っていない。
だから長い年月愛され、人々が魅了され、憧れ、わくわくする。

たくさんのものが絡み合って化学反応が起き、
融合し、1つの形となる。そのアートを、想いを、ワクワクを、私は世の中へ伝えていく人になりたいと思った。真髄を届けたいと思った。

そしてこの"軸"は、1の人間として生きていく上でも同じことが言えると感じた。
なぜ牧野つくしに魅了されたのか、そして仕事や、人間としても、生きていく上での指針ができた。
これが、ある意味この私の人生のスタート。

そんなファッション業界で一番はじめに選んだ仕事は"販売員"。販売員は何かと下に見られがちな職種でも、私にとっては仕事をする上で、何かに携わる上で、絶対的に関わるのはその先にいる"お客様=人"であると感じていた。その第一線が現場なのだから、Attache de Pressを目指すためにも、まずは生の声、雰囲気、世界、世の中のイマを知る必要があると考えた。

元々人と関わることが好きだった私は、なんだかんだで正社員として2社のブランドの販売員を経験。そろそろ次のステップを考える時かなとぼんやり思い始めた頃、人生で2度目の大きなターニングポイントを迎えた。


3. 人生2度目の分岐点、健康とヴィーガンをきっかけに知ったリアル。

そもそも飲食が大好きで、みんなと共有するその時間も好きだった私がビーガンをやるきっかけになったのは、体調面でのこと。

どんなものにも興味を持ち食べ続けた結果、体は重くなり怠くなる一方だったので、23才くらいからは自分の体と向き合うことを決意した。
そこでまず始めたのが、グルテンフリー。

グルテンフリーは、エステの方に言われたこと。
でもそんなことを言われても、思い返せば小麦粉しか食べていない日なんてザラにあった。
ピザもラーメンもパンも大好き。
大好きで、辞めたくない一心から、グルテンフリーに関して調べまくった。

しかし、、、納得してしまった。笑
「あーーー。笑 食べるもの見直そ。笑」と。
大好きだったのに無理をしなくても自然に量は減り、無意識の依存状態も抜け出した。

マックス体重から13キロ痩せたとき

そしてここから。
痩せていき調子も楽になった頃、弟に言われたこと。「それならビーガンやればいいじゃん。」だ。

それは、肉も魚も、乳製品も卵も食べないこと。
「絶対むり。笑」と、当たり前のように思った。笑

これがきっかけだったものの1年程はピンと来ず、なんだか向き合うのも怖くて、放置し逃げていた。
でも何故か不意に気になり、また調べまくった。

そしてグルテンフリーの時のように、また納得してしまった。笑
更には添加物、遺伝子組み換え、栄養とは、など食と健康、病気、政治などありとあらゆることが繋がっていき、興味が湧き、勉強もした。

その上ビーガンを筆頭に調べれば調べるほど、現代の色んな実情やリアルを目の当たりにした。サステイナブル、貧困問題、労働問題、格差問題、環境汚染。
何不自由なく今を過ごせている私たちのこの世界は、どこかの国の子どもたちや人々が苦労をした上で成り立っていることもあるということを知ってしまった。

ちなみに補足しておくと、金銭的に苦しい時期と興味が湧いた時期が被ったので3ヶ月だけビーガンを行った。痩せていくのはもちろん、何よりも精神的にも肉体的にも軽く、色んな意味で人生で一番スッキリしていた。脳内もクリアだった。女性特有の悩みも初めて解消された。1日3~4時間の睡眠しか取れなかった当時の私にはとてもありがたく、乗り越えられたのはまさしく食のお陰。(※挑戦する方はきちんと調べ栄養バランスに気をつけること。辞めた理由は健康面ではないこと、金銭面が潤ったわけでもないがそのせいで厳しくなったわけでもない。ビーガン食は今でも大好き。)

作ったビーガンご飯、スイーツ

話を戻すと、それから世の中へ色々な疑問が生じた。ましてやAttache de Press、伝える仕事をしていきたかった私は勝手に責任を感じた。

伝えることも、責任を伴うのだと。なんでもかんでも世に送り出せばいいものでもないと。本質もしっかり見ていきたいと思った。何より無意識に誰かを苦しめていることに、心がモヤモヤした。



4. アパレルを辞めた理由と、現在に至るまで。

食と同じくして、ファッション業界にもマイナスな面は存在する。

例えばデニムを作る際の環境や労働者への身体負担があるにも関わらず、お給料が高いからと、家族を養うためにと、結局需要が成り立っているから一概にはなんとも言えないと、学生時代に教わったことがある。
でもいざ現場で働くと、大量生産大量消費に疲れてしまった。そして心のどこかでずっと何かが引っかかっていた。

セール前に大量に納品されるのに、セール後やシーズン終了後に大量に返品することにも嫌気がさしていた。それは、洋服が好きだからこそ。
そしてサステイナブルきっかけに、大好きなファッション業界に関しても向き合って改めて実情を調べてみると、想像以上に酷かった。

その頃にはもう、心のモヤモヤに蓋をすることができなくなっていた。もちろん、そのおかげでたくさんの文化や素敵なものが生まれたとは分かっていても、誰かの命を、生活を、家族を犠牲にしてまでは、、、と思ってしまった。

それからは、形に拘らなくなっていた。日本で言う広報、PRはキラキラしたイメージがある。仕事の幅も広く大変なこともあるがやりがいもピカイチ(きちんと経験はしていないが性格上そう思う)。たくさんの人と関わり、イベントやパーティーに繰り出す。繋がりも増えていく。

でも、ただただ綺麗なものには興味がなくなっていった。本当に大切なことは何か。そっちの方が私には重要になっていったから。

そんな時に共感できたのが、(株)MITORAであり、CENZ BAR(センズバー)だった。胸を張って、心から伝えたい。届けたい。と、想えるものだった。

弟が取締役をやっている(株)MITORAはベンチャー企業でCENZ BARはD2C。経験がなくてもチャレンジをさせてもらえた。

みんな知識や経験はゼロのスタート。お給料も出せる状態ではなかったけど、そんなのは私には関係なかった。それほど会社のことも、プロダクトにも、胸を打たれ、魅了されてしまった。

幼少期より、それなりに大変だった家庭環境や境遇。
それに加え知ってしまった、世の中のリアル。
理不尽なこの世界を少しでもどうにかしたかった。
見て見ぬふりができなくなった。
もっともっと世の中に笑顔が広まってほしい。
もっともっともっともっと、
本当の意味で最っっっっ高な今に、未来にしたいと心の底から想ったから。

願うだけじゃあ、祈るだけじゃあ、何も変わらないから、自分から動こうと想った。
それがMITORAに入った理由。

トシフミとのこれまで

ただ、生きていくために他にも仕事をしなくてはならなかった。
そして、本当の意味で世の中へ伝える仕事をしていくにはどうしたらいいのか、今の自分に足りないものが何かも考えた。

それが、デジタルの分野。現代には欠かせなくなったデジタル。
ましてやCENZ BARはD2C。世の中へ広めるためのアナログな部分は専門学校で学んだものの、デジタルにおける広まる仕組みには無知だった。まずはここを学ばないと勝負していけないと感じた。経験や学びが必要だった。

MITORAに携わるために。
もっと笑顔溢れる世の中であってほしい。
役に立ちたい。
サポートしたい。
自分の利益を全て度外視して誰かの、何かのためにと、自分を犠牲にして動き続ける弟の背中を見て尚更突き動かされたから。
だから、自分に力をつける必要があった。

そしてどうせならと、自由な働き方も求めた。
だって、1度きりの人生、楽しみたいから。
柔軟に動けるように。
そこで出逢ったのが、並行してお仕事をさせていただいているIT&Webマーケ関係の会社。こうして今はMITORAにいながら、フルリモートで色々行っている。

「また、地球に生まれたい。」と想えるような人生と未来になるように。


5. 今、想うこと。

きっと、この挑戦は果てしなく長い。
この先何かが起きて、考え方が変わることもあるかもしれない。
でも、よくある言葉だけど、人生一度きり。
せっかくこの地球で人として生まれたのだから、
怖いからと、大変だからと、
止まることはできない。
辞めることもできない。
したくもない。
大事なのは、やらないやれない理由を口にするのではなく、まずはやってみること。行動すること。
ダメだったらそこから軌道修正すればいい。

正直、めちゃくちゃ怖いときもある。
不安もある。
何度孤独を感じたかも分からない。

でも後悔なく、楽しかった。やり切った。と、
言えるように。
かっこいい、魅了される人間として、
自分がこの人生に胸を張れるように。
太陽に顔を向けて歩いていけるように。
みんなで本当の意味で笑い合えるように。
本当の幸せや、楽しい、を届けるために。
みんなに愛を届けるために。

人生、色々ある。
書ききれないほどの経験も苦労も山ほどあった。
でも全てに後悔はなくて、
全てを乗り越えてきた自分に自信もついた。
たくさん傷つきもして、
その分優しくなることもできた。

全部意味があって、その全部が自分となっていく。
たっくさん経験して、たっくさん楽しんで、たっくさん苦労したから今の私がいる。
だからこれからも私は、走り続けていく。
たまにの休息を挟みながらも、止まらない。
進化し続けていく。
そんな自分が大好きで、誇らしくもあるから。

私もまた、「また、地球に生まれたい。」と想えるような人生と未来を歩んでいけるように。

そして、自分だけ幸せになってもつまらないから、
みんと一緒に、みんなに愛を届けて、
1人でも多くの笑顔を生み出したい。

みんなの笑顔が見たい。

株式会社MITORA Aya

ー END ー



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